『花束みたいな恋をした』(2020)




2月1日、『花束みたいな恋をした』を観た。緊急事態宣言下で、感染対策をしっかりとった上での鑑賞だった。
 ・・・などと言う感想をブログにしたためただろうか。昔の私がこの映画を観ていたら。
 映画を観て感想が浮かぶ順序は、作品によって違うものの、まず私個人としての感想が浮かび、次に社会的・歴史的な位置付けが浮かび、最後にコアな、純粋に映画としての感想が浮かぶ、などという流れがある。とすれば、この作品に関しては第一段階と第二段階に相当足を取られて、なかなか核に行き着けない。
 とりあえず思ったのは、優しい映画だということ。筋立てを取り出せば『カルテット』第8話のような残酷さがあるものの、映画的な画面によってだいぶ中和されている。仮にこの作品がテレビドラマ的なむきだしな画面であれば、立ち直れない者が続出したであろう。
 そして、どうしても振り返ってしまう我が身のこと。私は妻とは2013年に交際を始め、2016年に結婚し、2018年に子供が産まれた。その5年間という日付は、この映画の中で経過した時間と同じだ。
 だから、彼らがなぜうまくいかなかったのか、については、ある程度考えがある。無論、まだ私たちだってそんなことを言えた立場であるかはわからない。あと50年くらい経たないと言えないかもしれない。
 結論から言えば、劇中の山音麦と八谷絹のような葛藤は私たちにもあったし、それは話し合ったり、あるいは見て見ぬふりをしてきたり、子供の誕生により克服される形になったりで、どうにかなってきた。正直、彼らと私たちの差異など誤差の範囲だろう(見た目を除く)。
 この映画の残酷なところは、多分彼らが5年出会うのが遅ければ結婚していたのではないかということだし、こういう別れ方ならハッピーなのではないかと一瞬でも思わせられるところだと思う。彼らが別れを選ばなかった世界線は確かにあるが、それが彼らを幸せにした保証はない。
 彼らの文化は生活に負けた。かつての彼らが話した言葉が「今」の彼らを責め、かつての彼らなら軽蔑していたような人間になっている様はとても痛切だった。日々の暮らしや仕事に追われる私にも突き刺さったことは言うまでもない。
 纏めると、市井に生きる恋人たちの姿を観察的に捉えた稀有な作品であり、これから先も影響を与え続ける作品になるだろうと思った。私たちもなるべく良い世界線を選びたい。

(補足)
 いわゆる「サブカル」を描いたこの作品に特徴的なのは、あれだけ文化的なアイテムが出てくるにもかかわらず、そのどれもが彼らの心情に呼応していないことだ。私ならあそこで羊文学の「ドラマ」を流した。でもそれをしないのが土井裕康や坂元裕二のクールさなのかもしれない。
 この手法をよく使うのが同じディレクター出身の大根仁なのだけれども(そして自分の価値観は正直そっちに近いのだけれども)、大根監督の描く登場人物が文化(サブカル)に殉じる印象がある一方で、坂元裕二の描く登場人物はあくまでも生活人として文化に触れている。そこにある種の痛切さを思う。

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