ソーシャルディスタンス

時折SNSを開く。そこにはいつだって無知蒙昧な言論や、対立を煽り無用な火種を撒いていく奴らの万華鏡じみた鬱積、言論にすらなりきれていない雑言、承認欲を潤すためのlook at meの代名詞、類義語、三文笑いを誘うネタ、それらがパンパンに膨れ上がった焼き餅のように所狭しと陳列されており、液晶を透過してもぬるぬる、テカテカと鈍い光を我先にと放り投げている。
触らぬ神に祟りなしの精神で、私はそれらを見なかったことにする。彼らの生産する大量の焼き餅、あるいは発言に私は殆どの場合なんの価値も見出せぬのであるが、時折彼らが羨ましく感じることもある。

言いたいことが、仮にそれが本当に言いたいことでなかったとしても、口にしてしまえる度胸や浅慮が、私には羨ましく、不快で、且つ悲しくもある。彼らの唯一の希望は社会と繋がっていたい、社会的に有意な存在として認知されたい、繋がっているという安息を得たいという紛れもない人間に対する求愛行為であるからだ。
とすれば、私にはもはや社会全般への求愛意思がない。他者への根源的な恐怖と漠然とした倦怠感が関係の発展性や連続性を拒絶するのだ。
なんだか近頃とくに他者との間に薄い透明な堅固で高い壁が出来てしまったように思う。
ソーシャルディスタンスという概念は他者と物理的な距離を置くための装置以上の意味合いを無自覚に負い、ある種の人種に対して厳粛にそれらを提示してくる。

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