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モノモライの結果を受けて、愉氣の稽古

前回のモノモライですが、報告を受けて治っていないとのことでした。
師匠がその方を観たところ、「愉氣が甘い」。
集注できてないので、愉氣が面から点になっていない。
師匠がその方を観ると、「明日あたり破裂する」とのこと。

そういう手をつくりたい、ということで、今回は着手の稽古。
まず、通常の着手を行い、次に目隠しをして着手、次に耳を塞いで着手しました。

通常の閉眼での着手と、目と、耳を塞ぐ着手は、まったく違うものでした。
私はこの時、目と耳は自身の外部を認識するためだけのものでなく、自身(他者も含む)の内側、を内観するための器官でもあることを確信しました。
眼は、科学的医学的には身体外部からの光の受光器官となるのでしょうが、それ以上のものだと思います。
耳も同様だと思います。

「鼻も塞いだらどうか?」と妻が言っていましたが、そうすると口呼吸になるから無理だねと皆で笑っていました。

一夜明けて今日、目と耳を同時に塞いで、師匠に愉氣をしました。
「ぼくが感じている感覚と近い」と師匠は言っていました。

しかしまだ「もどかしい、もう一つ入ってこれてない」とも。
たしかにそうだと思いました。
もう一歩入りこめば、すべてがわかる、という印象を受けた。

師匠の目と耳を同時に塞いだ着手はすごいものでした。
吸わされる。
通常は着手で吐かせるわけですが、この時は吸わされました。
この「吸う」というのも、緊張で息を吸ってしまうのでなく、自分の本来的な呼吸に誘導されている感覚でした。
ぐわーっと吸わされました。
「それが君の呼吸だよ。人によっては、すーっと吸う」。

ちなみに、妻の愉氣は質がわれわれと違って、包み込むような愉氣で、目と耳を塞ぐと、地球の真裏に貫通するような愉氣へと変化しました。
人によって愉氣の質も違うわけです。

昨日今日は師匠に岡島道場時代、そしてそれ以前の修行時代の話も聞け、勉強になりました。

(2017年9月2日執筆)

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