落とし物と惰性
下ばかり見て歩いているということは、ほとんど日常的に動物の死骸に出くわすことになる。もちろんいつもは虫だが、たまに動物の場合もある。鳥の場合だってある。ところで、私は道に落ちている死骸を落とし物としては撮らない。だから落ちているということでは共通していても、死骸は落とし物にはどうしても分類できない。この差はどこから生じるのか。
安心してください。かれ/かのじょは生きてますよ。ただ、かれ/かのじょ(はムシクイですよね?)のなかまの個体が死んでいたのをこの写真を撮るより以前に見たことがありました。目立った外傷もなく(死因は感電か何かだったのではないでしょうか)、目を閉じて街場の一角で静かに息絶えていました。そのときは写真を撮ることなく心の中で手を合わせて立ち去りました。(ちなみに、写真のかれ/かのじょはあしでも怪我したのか、道の真ん中にいてずっと動かず、そのままだと間違いなく車に轢かれて死にそうだったのですが、移動しようにも周りは木も土もなく、雛鳥でもなさそうだけど念のため親が見てれば助けに来れるように、近くの小学校の校庭の端においてきましたよ。虫が主食らしいので、野生じゃないと生き続けるのはむずかしいはずですが、木が比較的たくさんありましたから。)
と、話を戻すと、今日、用水路の真ん中に犬の死体があった。水かさが低かったので浮いておらず、あたりには陽光に照らされ波打った澄んだ水が流れていた。目を閉じた顔を見ても、もう魂は完全に抜けているのだろう、穏やかな美しい骸に見えた。おなかだけ膨れており、溺死かもしれなかった。そこにはもはや生命の余韻はなかったように感じられた。冷気があたりを覆っていた。
骸から消えてしまった生命の余韻とは何だったのだろう。それは生命の惰性ともいえるような、一定時間は在り続けるもののはずなのだが。それとも、もしかして生命体にはそもそも宿らず、物体にしか移らないものなのか。だとしたら、生命体とともにある魂とは違って、生命体とともにあって生命体と共鳴した物体の、その残響こそが生命の余韻であり、私が落とし物に見出しているものであるということになる。だから仮に生命体が落ちても、また命を落としてしまっても、生命体を落とし物と見なすことはできないのだ。骸は、たとえ骨になっても物体じみてはいないということだ。
もし生命の余韻が生命体から物体へ移ることでしか生じないとするならば、生命の余韻が生命体そのものから感じられず、それゆえ生命体と一体化しているかのように身につけられているときは何も感じないというのは、理に適っているように思われる。
堕トサレの「堕」の旧字体に「墮」があるとおり、惰性の「惰」だって語感的にはつながりがあると思われる。その惰性(この場合、慣性の意味で用いているが)がなぜ死骸に感じられないのかから考えた、落とし物における生命の余韻についてのエッセイ。