【実験】或る男の休日

 目を覚ますと、薄明かりが部屋に差し込んでいた。
 直後に、スマホのアラームが午前五時三十分を知らせる。布団から手を伸ばしてスマホを掴み、アラームを止めて気付く。今日は土曜日だ。
 「ったく、何だって…」
 自分でも意味の分からないことを呟きながら、掛け布団をはぐり、台所へ向かう。顔を洗い、歯を磨き、冷蔵庫から取り出したペットボトルの緑茶を一口飲みながら風呂の追い焚きボタンを押す。風呂が沸くまで二十分はかかるだろう。
 欠伸をかみ殺しながら部屋に戻り、布団に寝転がる。充電ケーブルが刺さったままのスマホのロックを外しながら、昨夜アラームを解除し忘れた自分の迂闊さにため息をつく。何だって、せっかくの休日に早起きなんぞしなきゃいけないんだ。
 「まぁ、いいか」
 口をついて出た言葉に、応えるものはいない。
 手にしたスマホを操作し、SNSサイトを順に巡回する。特に大きな出来事やメッセージは無さそうなので、仲間のポストのいくつかに「いいね」とコメントを投稿しておく。もう、眠気は訪れてはくれなさそうだ。

 『モウスグ オフロガワキマス』
 台所から聞こえる電子音声に身体を起こし、風呂場へ向かう。完全に沸くまではあと数分かかるが、別に入れない訳じゃないし、たいして温度に変わりはないだろう。それに、自分の中で風呂欲のスイッチが入ってしまったからには、止まる必要は無い。
 脱いだ寝間着と下着を洗濯機に放り込み、ゆっくりと湯船に浸かる。暖かい感触と湯気に、自然と身体が緩んでいくのが分かる。
 朝風呂に入る習慣は、四十歳を越えたあたりから定着した。起きたときの加齢臭が気になるようになり、そのまま外出することに怖さを感じたからだ。特段気にする必要は無い、と妻は言うが、不安なものは不安だ。それに、夏を除いて朝から暖かい風呂に浸かるのは気分がいい。休日の朝なら尚更だ。
 たっぷり二十分は浸かっていただろうか、湯船から上がり、身体と頭を洗いながら風呂の栓を抜く。洗い終わったタイミングで湯船に洗剤をスプレーし、スポンジで浴槽を洗い、ざっと流す。冷えないようにシャワーを身体にも掛けながら。風呂好きとして、湯垢がついたままの浴槽を放置することは許されない。

 身体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。その音が聞こえたのだろう。部屋越しにさえずり声の輪唱が耳に入る。小さな家族が目を覚ましたようだ。
 「ちょっと待ってろよー」
 同じく部屋越しに声を掛け、部屋着を身に着けて妻の部屋へ向かう。部屋の主人は仕事の都合で明後日まで不在だが、住人は権利を主張するかのように鳴き続けている。
 我々は食事を要求する、と。
 「はーい、おはよう。今朝も元気だな」
 タンス上に並んだ金属製のケージに張り付く、二羽のコザクラインコに声を掛けながら指でからかいつつ、一羽ずつケージから連れ出して計量する。
 42.5グラムと43.1グラム。健康管理のため、記録はちゃんとしておく。かかりつけの獣医に、体重管理を怠ると怒られるし、何より彼らには長生きをして欲しい。
 体重の変化と毛艶、動きに変わりが無いことを確認しながら首筋を指で撫でる。首と顎を掻かれてしばし気持ち良さそうにするも、空腹を思い出したのだろう、手の中でもがく暖かい羽毛の塊をそっとケージへ戻す。
 シード餌とペレット餌を、決められた量だけ餌かごに移す。替えた水にビタミン剤を一滴落とし、ケージに戻す。餌かごに夢中な二人をそのままに、室温を確認すると部屋を出た。
 俺だって空腹なんだ。飼い主より先に食事にありつけるなんて、贅沢な奴らめ。

 冗談めかして苦笑いしながら台所へ向かい、自分の食事の支度を始める。昨夜炊いた白米はまだ炊飯器に残っているし、常備菜も冷蔵庫に小皿二つ分はある。食べ切って、今日の午後は買い出しと料理だな、そう考えながら卵とチキンハンバーグを取り出した。
 小鍋に水を張り、粉末出汁と味の素を少々。中火にかけて沸騰したら火を止め、味噌を溶く。刻んだ白ネギとざく切りの小松菜を放り込んで、味噌汁の完成だ。
 強火で熱したフライパンに米油を多めに敷き、卵を2つ落とす。揚げ焼きのような目玉焼きを作る間に丼に白米を盛り、チキンハンバーグを温めるように上に乗せる。黄身が半熟になったところで火を止め、丼に目玉焼きを乗せる。
 冷蔵庫からきんぴらごぼうと胡瓜の浅漬を取り出し、丼と味噌汁と共にテーブルに並べる。ご機嫌になれる朝食の完成だ。
 もちろん、こんな高カロリーな朝食はそうそうできるものじゃない。妻が不在の休日だけに許される、背徳の美食だ。

 味噌汁を口に含み、黄身をカリカリの白身にまぶしながら白米、ハンバーグの一片と共に搔き込む。目玉焼きには粉胡椒と醤油。これだけは譲れない。
 なお、塩胡椒派の妻とは、結婚当初に休戦条約を結んである。朝食から目玉焼きでいがみ合う夫婦、傍から見れば微笑ましいかもしれないが、当事者はたまったものではない。
 白米一合はある丼を持ちながら、小皿の副菜を摘み、味噌汁を啜る。平日の朝、栄養補給のために押し込むモノと大して変わらないメニューが、美味く、そして普段よりも血肉になるような錯覚すら覚える。
 食事を終え、食器とフライパンを洗い、鍋に残った味噌汁を耐熱茶碗へ移し替えておく。本当はお代わりしたいが、塩分の取りすぎを注意されてからは一食一杯まで、と決めている。こんな朝食なんだから別にいいだろうと言うなかれ。そこから食の堕落は始まり、後々で後悔するということを、今の年齢になって痛感している。

 洗い物を済ませ、時計を見ると午前8時。何をするにも良い時間だ。タブレットを起動し、動画サイトから気分に合いそうなものを探す。うまい具合にボーカロイドのメドレー動画がお勧めに上がっていた。
 電子音と人に似せた機械音声の歌声がリビングに広がる。少し年代の古い、一世を風靡したナンバーが耳をくすぐった。緩んだ口元を、誰が咎めようか。
 「さて、と」
 妻のいない部屋に、自分の声だけが聞こえるこの空間と時間をどうするか。床の埃を軽くワイパーで拭くだけにして、買い物に行こう。近所の代わり映えしないスーパーではなく、車で少し離れたマーケットにでも行ってみよう。何ならその近くにある雑貨屋を見て回ってもいい。
 少なくとも、今日の私は自由だ。そして時間はいくらでもある。

 マーケットへ向かう途中、気付いた。
 洗濯機、回したっけ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?