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「自分は幸せなんだな」という暫定的な結論(その2)

土曜日の夜帰宅するとつんちゃんからLINEのビデオ通話が。
高校柔道部同期が集まって、供物などの打ち合わせを兼ね、努を偲んで飲んでいるそうだ。そうそうこんな夜はひとりでいない方がいいね。
つんちゃんが声をかけて集めたようだが、元体育教師だからか、だから体育教師を長く続けられたのか、とにかく全体に目が届く気遣いができる。私にも気を遣って連絡をくれたのだろう。
つんちゃんがみんなの顔を順番に映して見せてくれる。地元にいる同期は全員いる様子。さすが結束固いね。バックで「煮込み来たよ〜」とか声がする。

翌朝(日曜日)。葬儀屋さんが安置所でお悔やみできるようはからってくれたとの連絡。私は行けないが都合がつく人が大勢訪れている様子が刻々と伝わってくる。
LINEのやり取りに柔道部の先輩後輩をはじめ、柔道部以外の懐かしい名前もちらほら出てくる。
つんちゃんが、安置されている努の写真を送ってくれた。
目を閉じて横たわる努の写真を目にすると「ああ、本当に死んじゃったんだなぁ」と実感が。
電話でつんちゃんと話すと
「ふざけてにゃあで早く起きろって言ってるだけん起きにゃあさぁ」
だと。
なぜか缶蹴りでなかなか見つからなかった時のことを思い出してしまった。
「ふざけてにゃあで早く出てこい」

会社の仕事が少しだけゴタゴタしているので葬儀には参列できるよう片付けておかなきゃ、と思っていたが月曜日の朝になると、葬儀は9日金曜日に決まったが、家族葬で、弔問、供物は受け付けないことになったと連絡。安置所でのお悔やみも翌日(火曜日)の昼まで、ということになった。月曜午後から関東地方に大雪が降ったあの月曜火曜だ。

なんと。
努とお別れできないのか。
こんなことなら無理してでも日曜日に駆けつけるべきだったかとかなり落ち込む。
このところ何につけても判断を誤ることが多く、気が沈むこと多かったがこれは痛恨だ。
どうにもいろいろうまくいかないな。
と思っているとその夜(月曜の夜)、ある程度人数を抑えての参列が可能になったと連絡。
親戚の方が、安置所に大勢の友人がお悔やみに来ていることを知り、急なことでお別れに来られなかった人のためにと方針を変えてくれたそうだ。
親戚の方の心ある配慮。これは地元にいるみんなの力、そしてそれは努の力。
こんな際に「嬉しい」という言葉は適切じゃないだろうが、私としては救われた気分。いやほんと。「判断誤った」などと泣きごと言ってる自分が恥ずかしい。

というわけで9日(金)に帰郷する準備。
水、木曜日で仕事をスッキリ片付け、9日に一泊するホテルを予約、木曜日の帰宅途中、北千住駅で新富士までの新幹線の指定席切符を購入、新富士までは兄に迎えに来てもらうことになった。

そんな間にも、つんちゃんから「もともと家族葬向けの会場で、駐車場もあまり台数が停められないので他を手配した。柔道部関係はここ、そこがいっぱいならこっちも借りといたから。他に停めてトラブルになるようなことは絶対するな」と細かい指示がやってくる。仕切る仕切る元体育教師。笛を吹きながらあちこち指差しているつんちゃんの姿が目に浮かぶ。

そんな手配の流れで私も当日の式場までは小学校からの友達で、中学、高校の柔道部で一緒だったみっちゃんの車に乗せてもらうことに決まり、一泊するので夜は飲みに行こうとつんちゃんに振り、私の行動はいろいろ決まっていく。
すまんつんちゃん。葬儀の打ち合わせやらで忙しいだろうについつい甘えてしまったよ。

9日朝。
喪服の上にコートを着て家を出る。着替えはリュックに入れて背負ったが、冬の衣服はなかなか重い。靴はこんな時用の革靴一足で過ごすことにしたが、履き慣れないのでちょっと痛い。
余裕を見て出発したはずが、乗り換えの人混みで時間を取られたのかなんかギリギリに。判断誤ったか。それは言うな。
それでもなんとか無事乗車。あとは新富士まで1時間ちょい。本でも読んで、眠くなったら寝りゃいいさ、とシートにおさまった。
が。
本の文字を追っていてもほとんど頭に入ってこない。なんかいろいろ考えちゃう。
ま、じゃ、寝ときゃいいかと本を閉じ、目も閉じる。
が。
眠れない。なんかいろいろ考えちゃう。
しょうがないからいろいろ考える。

努と私が入った中学の柔道部はローカルではなかなか強いところで、練習もきつかった。
入部前、
「腕立て伏せとかできないんですけど」
と仮入部受付の先輩に言うと
「だいじょぶだいじょぶ。できなかったら今度頑張ればいいよ、ってそんな感じだから」
と言われ、「それなら」とそれを信じて入部したが。
腕立て伏せができない者に「今度」などなく。
できるまで「今」が終わらない。
基礎体力をつける練習が果てしなく続いたが、全てそんなシステムだった。この前まで小学生だった体にはかなりきつい。

その基礎体力練習の中に「首上げ」というのがあった。
首を鍛えるため、仰向けに寝て、一定時間(数分だったと思う)畳から頭を上げているという練習で、単純だが時間が長くなるとなかなか大変で、決められた時間を待たずに頭を落としてしまうものも多かった。
そんな時どうなるか。
そんな者は頭の下に4個くらい画鋲を置かれるのだ。

画鋲:掲示物を壁面に固定する際などに使われる、金属・プラスチックなどの頭部に、鋭い針を取り付けた器具のこと。(アプリ「じしょ君」より抜粋)

画鋲(鋭い針)が刺さるのが嫌なら頭を上げてろって。
虎の穴の特訓みたいだが実話だ。
実際、私の隣にいた者が耐えきれず頭を落とし、後頭部に画鋲が刺さっているのをこの目で見た。
金色の丸いものがふたつ、坊主頭に刺さっている映像をくっきり覚えている。
現代の価値観では不適切な映像ですが私の脳内ではオリジナルのまま再現されます。
ただこの、本当に刺さった時は先輩もちょっとあわてていたようなのでそれが救いといえば救いかな。救い?

ちなみに、仮入部受付の先輩たちは比較的小柄の軽量級の先輩たちだったが、他の先輩たちは体格も良く、鍛えられていたので迫力があった。人当たりが良さそうな人材をフロントに置いて油断させて勧誘していたわけだ。
この時の「だまされた感」というか「入口はニコニコ中は地獄感」のおかげで還暦過ぎの今までマルチ商法だの、投資詐欺だの、クソ高い英会話教材だのに引っかからずに生きてこられたんじゃないかな、と思わなくもない。

私は中身はともかく体だけは中一にしてはかなり大きい方だったが、中一にしてはかなり小さい方だった努は基礎練習も、その後の練習もかなり大変だっただろうな、と今ならわかる。が、当時は人のことを考えている余裕などなかった。土曜も日曜も祝日もお正月もなく一年通して毎日練習だったんだもん(テスト休みだけはあったっけ?)。

取り留めもない思い出をさらっているうちに新富士駅に着いた。10時31分、定刻の到着です。よっこらしょとリュックを背負い富士山口駐車場へ。
兄の車には母と叔母(母の妹)も乗っていて、「みんな元気?うんうん。うちの娘は今度大学4年だようんうん」みたいなやり取り。
夏に帰った時は膝を怪我していて杖をついていた母だったが、今は杖なしで歩けるようでよかったよかった。
しばらく走ると富士山が見えてきた。夏場は雲が多くて見られる時間が限られる富士山だが、今はほぼ全体が見える。青い空、適度な白い雲、富士山、帰ってきた感。相変わらずデカいねあんた。

(つづく)

*写真は宿泊したホテルの窓から撮影。6階からでしたが、麓感ふもとかん満載の写真が撮れました。街並みと一緒に撮ると巨大さがわかります。これを見るために帰って来たいくらいのいい眺め。
ずっと住んでいると当たり前でも久しぶりだとその貴重さに気づきます。富士山も、そして友人も(と、きれいに締めたりして)。

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