見出し画像

『作りたい女と食べたい女』の「アライになろう」に引いた人は素直に距離をとっていい

 この「アライになろう」ですが、何気にかなり評判の悪い表現のようで、『作りたい女と食べたい女』(以下、『つくたべ』)にそれで失望した読者も多いようです。

 もしかすると、この「アライになろう」に逆らったらいけないと思っている人もいるのかもしれません。何せ、『つくたべ』は令和の百合の新基準みたいな扱いを一部の人たちが行っている漫画作品です。誰かが同性愛に関してやらかせば「『つくたべ』を読んで勉強しろ」と飛んでくる世の中です。そんな『つくたべ』に対し少しでも物申せば「差別主義者にされてしまうかもしれない」と恐れても無理はありません。

 しかし、この「アライになろう」は非常に問題のある表現です。理由は以下のようなところです。

  1. アライそのものに対する理解が怪しい

  2. 同性愛者設定のキャラクターが呼びかけることによる押し付け態度、および当事者のイメージを悪くする行為

  3. 支援先団体は「アライになろう」とか(多分)言ってない。個人の思想を勝手に加えている

 もちろん、これらがすべてではないでしょうし、これらを批判したい人もいることでしょう。

 また、上記記事にて作者の人はTwitter(現、X)にて作中登場人物のレズビアン表明をしたという、外部サービスで証明して何の意味があるのかよくわからないことを勲章かのように扱っておりますが、その一方で現実の政治問題にアクセスを促すみたいなことは事前に一切表明しておりません。


 そもそも『つくたべ』作者の人は「アライ」というのが当事者から冷たく見られるものだという、ごくごく基礎的なことを理解していないように感じます。特にマイノリティは「マジョリティにこの苦しみがわかるものか」という思考になりがちというか、ならざるをえないので、よくわからない「アライ」に厳しくなるのも、「アライ」としては理解せねばなりません。

 映画『パレードへようこそ』作中のLGSMのメンバーは最初に炭鉱労働者陣営から冷たく扱われます。それは性的マイノリティへの差別感情もありますが、それ以前に炭鉱労働者からしたらLGSMのメンバーは「アライ」なのです。ラストシーンで何故ああなったのかといえば、それは仲間と認められたからであり、必ずしも性的マイノリティに理解が深まっただけではないのです。

 「アライ」は映画『パレードへようこそ』のように当事者から冷たく扱われても受け入れる覚悟を持たなければなりません。そして、その苦労を赤の他人にまで要求するのはあまりにも軽率です。

「せっかくアライになったのに当事者が自分の思うような人ばかりじゃなかった、もう知らない!」

 こんな人が出てきてしまっては一体誰が幸せになるのでしょうか?


 もちろん、非当事者が人権活動に参加するのは、とても立派なことだと思います。しかし、さもそれが楽なことのように喧伝するのは、あまりに軽率であるようにも私は思います。

 「アライになろう」に違和感を抱いた方の感性は正しいです。活動・運動においては、自分がした苦労を赤の他人に共有させようだなんて大抵は思わないものですから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?