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認識時期来たる。

 最近、本を読むと、どうもいけない。戸惑う表現があると、自分ならこう書くのにと謙虚の頭を押さえつけ、勝手に表現を書き換える。自分流に正されたほうがしっくりくるから展開の波に乗りやすい。
 偏った嗜好なので追従厳禁の読み方。この傾向、最近強くなってきて、腕に磨きがかかってる。
 よく言えば自分のリズムが出来上がりつつあるといえるのだけれど、そこまで傲慢に読むのはどうしたものかと自己反省も顔を出す。
 で、腕を組んで考える。
 元来、素直で従順な性質だから、ひとときの気の迷いのような変換読書、これは他人に気取られてはいけないぞと思う。知られることは本意ではないし、知られて頑固者とレッテルを貼られたら悔しい思いをする。
 読書が読んだそばから理解のこと細かを周囲に知られる公開娯楽だったなら、こんな危ない橋は渡ろうとはしなかっただろう。本性の洗いざらいが周知のものとなるなんて、恥ずかしいことこのうえない。我が心の素直で従順なキャンパスなど、一点の濁りで台無しにされちまう。どれだけ巨匠のコメディアンとて、文春の真実砲が炸裂すれば、いかに豪奢な玉座でも抵抗虚しく打ち砕かれていくように、小さな一汚点は1枚の名画を駄作に変える。汚点一点を除けばどれだけの名画だって、中也の悲しみみたいにたちまち全域に行き渡り、ちっと舌打ち、それがマッチの炎とすり替わり、燃え広がって灰と化す。

 百恵ちゃんが全身全霊を傾け「女の子のいちばん大切なものをあげるわ」と言い放ったのと同じ覚悟をもって『それは違う、勘違いだ』と声を大にして叫んでも、いちど押された烙印は、たとえば狐の皮裘、小雪のかかってちぢこまるものへと成り下がる。
 人の耳に装着された言い訳聞き分けフィルターは、一点の濁りも見逃さない。検問に目をつけられたら最後m言い訳は「見苦しい」の刃で一刀両断にされ、命、尽きることになる。

 てなことを考えながら、次の本を読む。やはり、どうもいけない。すんなり進まない表現が目にとまると、立ち止まったそばから次々と変換されていく。もともと印刷されていたかのように、文章が自分好みに変わっていく。

 そろそろいいころかもしれない、と思う。
 潮時なのだ。
 このまま読んでいても埒が明かない。というか、ますます症状が深刻になっていく。
 いよいよ、その領域に突入したのかもしれない。空想が現実を上まわろうとしている。
 
 そろそろ、なのだ。きっと。

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