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優先順位。

 これまで生きてきて、あなたの人生はおおむね「よかった」と言えますか? それとも、よかったとは言えない、と思いますか?
 これまでの人生と同じような生き方なら味わわせたくない、と考えているのなら、子を持つ勇気は持てません。我が子に辛い人生を背負わせたくはないわけですから。

 イヤなこと、苦しいことはあったけど、まんざらでもない人生だった、と思えなけれな、子を持つ勇気を持つことはできません。
 お金の補助は、子を授かりたいと考える覚悟の原動力にはなりません。バックボーンになりこそすれ、さも金銭的負担が子の誕生の妨げになっていると決めつけている世の潮流は、あのお方たちがよく口にする「抜本的解決」にはなりません。

 子はいちど授かると手がかかる続きで、大きく育ってからも心配の種になりえます。親バカが天塩をかけさせ、自らの脛を削ってでも金をかけさようとします。愛情を注いでも注いでも、満ちることはありません。優れた策なら実りもするでしょうけど、親の想いはすべてを投げ打って与えても穴の空いたざるのよう。溜まることなくもれなく漏れ出てしまいます。

 それでも、そうした見返りのない寛容を惜しみなく注げる存在をそばに置くという、類稀な時間を享受できるのです。嫌がり泣きわめく赤子の耳をふさぐのも自分ではなく他者のため、奉仕の精神でぬるめの湯につけ不浄をきれいさっぱり洗い流してあげることができるのです。陽だまりの公園で手をつなぎその手を引いてあげることができるのです。我が事のように、受験の結果に泣き笑いすることができるのです。
 そんな存在と共に歩む時間が持てたなら、人生を振り返るとき、道の厚みに違いがでます。喜びも大きくなります。喜びが大きいぶん、寂しさも深く刻まれます。でもその寂しさは隙間風の寂しさではなく、あたたかな寂しさです。

 どうして世間は、人のいちばん大事なスイッチにふれようとしないのでしょう。出生率を上げることは、資本主義を循環させるうえで必然の課題なのでしょうが、表立って組み込むべき施策だとは思えません。結果的に経済に貢献する可能性がある程度にとどめておいて、あの人たちは先にほかのものに目を向けるべきなのではないでしょうか。出産・子育てに重点を置く政策は、なんだか強要されてるみたいでイヤだし気持ち悪い。意見がバラバラでまとまらないのも、政策が不完全だからなのではないでしょうか。

 ああしたやり方ではなくて。
 けしかけるようにして埋めよ増やせよ、ではなくて。もっとこう、なんていうか。家系図をつないでいくーーバトンを渡していくーー者の感慨の拡散というか。あまたある幸せ道の一つであるが決して悪いもんじゃないんだよ、ということをやわっと伝えていけばいいというか。器を作ってそこに当てはめるという反則まがいの力技ではなくって、自発的に「そうしたいよね」と顔を向けてくれるような誘導に率先的に取り組むことが大切なのではないかと思うのですが。どうでしょう?
 男のコートを脱がしたのは強風強権の雲ではなく、ポカポカのほほんのお陽さまだったじゃないですか。

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