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風前の灯。

 頭の悪い子のフリしてた。そのほうがジブンも救われるから。あれは演じている別の世界での出来事。ほんとうの私はこちら側にある。そのように腹を括って、マンションを出る。
 もう慣れっこ。
 
 ひとところにお客はひとり。仮によ、お父さんとその息子ってわけにはいかないじゃない。わかるでしょ。
 
 そしてお約束はもうひとつ。初めての場所は、記憶に刻むためにおウチを振り返ることにしている。
 なぜそんなことをするようになったのかはわからない。おそらくだけど、私の時間に空白を作りたくなかったからかもしれない。切り捨てるべきものは潔く斬って捨てるけど、私自身を捨てられないのと同じように、捨てていけないものがある。
 それが、私の歩いてきた時間。
 
 その日もエントランスを出てからちょうど100歩目で振り返った。そこはベランダの蔦模様が7階分積み上がったマンションで、青い空に張り付くみたいに所在なさげにしょぼくれていた。建設当時は蝶よ花よでもてはやされていただろう時代遅れのデザインは、今や何匹ものウサギに追い抜かれていった老ガメにしか見えない。
 いずれ私も。そう考えたらゾッとした。
 
 いや、今はそんなこと考えるまい。私はこの世界に身を埋めるつもりはないの。脱するまでの仮住まい。
 
 そんな私を毎週指名してくれる男がいる。決まって金曜日の夜10時。

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 一度きりには顔がないけど、仮にAさんとしておこう、常連さんの彼にはお面を与えた。
 Aさんは、週の労働が終わってクタクタになった週末に、とびっきりの開放感を顔にする。そいつをデフォルメしてお面にした。だからAさんはいつだってとびっきりの開放感を満面にたたえ、私を迎え入れる。
 こちらとて、仮の姿とはいえプロフェッショナル。前に数件こなしていても、その日初めてのうやうやしさで「こんにちは」をはにかみ笑顔で送ってみせる。
 
 彼は、私に夢中な時間を除けば饒舌だ。そんなこと軽々しく口にしていいの? というマル秘事項も喋っちゃう。
 ま、私になんか話してもどうせわからないと高を括られているだろうから、私もAさんに合わせて理解できないフリをする。
 演じるのは今に始まったことではない。慣れっこだし、とくに気遣うわけでもないから疲れない。
 
 そんなAさんに「どうするの?」と訊かれた。先週のことだった。
 
「考えてくれた?」今週になった、今日の今。続きがあったの?

「はあ?」だから私は、ひと時の気の迷いで大事なことを決めないほうがいいですよ、と言ってやった。
 私は、この世界で知り合った男と付き合う気はなかった。男だって同じように思っていることはわかっていた。Aさんだって例外ではない。口が滑るように動くAさんだもの。明日になれば「そんなこと言ったっけ?」なんて平気で惚けてくるに違いない。
 
 だから私とは、と一気にまくしいたてるつもりが機先を制され「殊勝な貴女であることはわかっていた。最初からね」と言われた時には息を呑んだ。
 
 この人は、私の何を見ていたの?
 見開いたまなこの先に、Aさんの真剣な眼差しがあった。
「おバカなフリは、今日はやめにしておかない?」

 こんな関係のどこからそんな言葉が出てくるの?
「わけわかんない」
 混乱もあったけど、気の迷いを断ち切ってやるつもりで突き放した。それから、することをさせるためにブラウスのボタンを艶めかしく外してみせる。
 
「まだわかんないか?」

 どういう意味?
  
「御茶ノ水女子大、どうしたの? 辞めたの?」

 え、なんで知ってるの?

「知ってるも何も、帝都ホテルで開かれた学会で、君はずっと僕をエスコートしてくれたじゃないか」

 イベントというイベントがあのせいで吹っ飛び、医学学会のアルバイトが予定表もろとも露と消えた。稼がなければならない生活費が蒸発し、そして私は途方に暮れた、あの時。
 過ぎ去った過去のはずなのに、その衝撃が閉じ込めた記憶の種から蘇ってきた。
 
 有能な人材だと思っていたんだよ、あの時から。
「本気だから」

 嘘よ。
 
 嘘じゃない。
 
 私にはわかる。
 
 わかっているなら、わかったうえで受け入れればいい。僕はそうしている。
 
 次の言葉が出てこなかった。彼は、私をわかっていて、こうなっていたのだ。
 唇が言葉を探して震えたけれども、声が出る前に塞がれてしまった。
 
 いつもとは全然違うキスだった。
 
 Aさんは、たしか都築明信といったはずだ。学会では名字にさんをつけて呼び、名札で下の名前を確かめていた。素敵な人だと思っていた。なのに、私は彼の顔を、この仕事で会う彼の顔を一度も直視していなかったことに気づいた。
 
 試していたの?
 
 そうだよ。
 
 変だと思っていたの。だってあなたの家には表札がない。まるで直前に剥がしたみたいな跡が残っているだけ。
 
 わかられちゃったら、ここに来る前に踵を返しちゃうと思ったから。

 都築さんを覚えていたとすればね、と私は精一杯の意地を張る。
 
 覚えていてくれたさ。今の君を見ればわかる。

 何も返せなかった。意味ある言葉を探したけれども、的確な表現がひとつも浮かばない。代わりに、彼の瞳を見つめた。
 
 心が、都築さんたら、と囁いていた。

 それでも、本当に飛び込んでいいのかどうか迷いを断ち切れない。
 そんな揺らぎを吹き消すように、彼は私を引き寄せた。

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