嘘は赤で、腹は黒。頭は白くなるもので、時代は暗くなるものだ。
表現の世界では色彩や明暗が幅を利かせていることに、なんだか納得できない。そこに、音がない。
ガシャンな心(頽れる)だったり、オクターブ上の気持ちといった言いまわしは滅多に使わることがない。
ヴァイオリンの弦が切れたみたいに緊張の糸が切れた、といったメタファーなら、帽子からいくらでも鳩を出現させるマジション以上に、数も種類も豊富に取りそろえられるけれども、状況と一体となった表現にお目にかかったことはない。
たとえば「真っ赤な嘘」を「ミファレの嘘」と表現したって、誰の耳にもピントはこない。だから使われないのかな? 呆れられ、捨て置かれるのがオチだよね。
「あまりの衝撃に頭が真っ白になった」を「あまりの衝撃に感情の心拍が静止音に変わった」なら少しはマシか。だけど、一部のマイノリティには認められるかもしれないけれども、客観視すると元祖にはとうてい敵わない。
色は留まっていられる。文字もまた然り。
だけど音は言葉とおんなじで、発した直後から下降しはじめ、地に足をつける前に消えていく。時間にしがみつくことができないのだ。
だけど桜の散り際に哀れと儚さと美しさを観てとれる国のひとびとならば、きっとわかってくれるはず。眼前で消えゆく表現を、心に投影し残し継げる。
その際を、きっと聞き分けられる。
……。
イカロスの翼のような試みを未だ続けている。
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