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実らぬ恋の物語。

 目をぱっと見開き、両口角をきゅっと上げる。接客の基本。好みの男なら、目の見開き具合を強調する。恋はするものじゃない。させるもの。恋に踏み入る大胆な一歩は誘い水。追うのではなく、来てもらう。踏み寄られて、半ば強引に腰を抱かれたりなんかして、ぐっと引き寄せてもらうもの。そのための間違ってはいけない手順、段取り。あたかも、貴方の燃える炎に焦がされて押し切られてしまったわ、を装う。小さな灯を業火に変えるおまじない。これも基本。
「いらっしゃいませ」
 冬の木枯らしに冷やされた陽光は、ガラス張りの店内に入るとエアコンの暖を見にまとい、その人のこぼれた笑顔に光る白い歯をあたたかく輝かせていた。
「ご用件を承ります佐伯と申します」
 歳のころは30前後か。タイトな黒のコットンパンツに、上半身のラインに沿ったグレーのブレザー、履き慣らそうとしている過程で汚れた程度のシミがついた白いスニーカー。その少しだけついたシミは、汚すまいと気遣っていたのに不慮のアクシデントに巻き込まれてしまったせいさというような控えめなものだった。その、少しアイボリー寄りのスニーカーに色を合わせたTシャツ。右腕に純白のダウンジャケットをかけている。左手薬指に指輪はない。
 悪くはない。
 私はいつもの強調レベルよりさらに気合を入れて見開いた目を彼に向けた。
 男が結婚しているかどうかは問題ではなかった。結婚しているのに指輪をしない男なんてごまんといる。結婚に対する考え方は、親の世代とは天変地異のビフォー、アフターほど違っている。今や結婚は言い訳不要の恋愛行為だ。旅行に行くのに嘘で固める苦労もなければ、午睡を貪りながら邪魔が入るまで裸のままでいられる。邪魔が入ったからといって慌てて着衣を整える必要もない。あしらったあとは、再び裸の午睡に戻ればいい。
 仮に彼が既婚者だったとしても、この時点で彼との結婚は考えるのにあまりに非現実的すぎて、遠雷の響きにも届かない。海の向こうで始まった戦争ほど、焦点の合わせにくい現実だった。
 ちょっと知りたいだけ。少しだけ深く関わり合いたいだけ。
 そんな彼と恋が始まったとして、もし深みにハマってしまったらどうすればいいか。そんなの、決まっている。その時になってから考えればいい。それだけのこと。結果として彼が私を選んでくれることもあるだろうね。あらいやだ、もし本当にそんなことになったなら、運命を受け入れるしかないわよね。
「あの」と彼がいう。
「はい?」私は瞳を開き見つめて訊く。
「無理しないほうがですよ」
 なに?
「顔が赤い。熱があるんじゃないですか?」時節が時節だけに、彼は私から距離を置き、迷惑を表情に浮かべている。
「いえ、私、そんな」咄嗟に否定したまではよかったが、そこから先は説明できなかった。真実を語ればわかってくれるどころか逆効果は火を見るより明らかだったし、本当のことなど言えるわけないじゃない。
 恋の炎は彼に灯せたわけじゃなく、独りよがりで私のほうで着火して燃え広がり、勝手に燃え尽きてしまったのね。もうっ。

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