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彼らにとって街は大きすぎる。

 活動量を常時マックスで使える成人を基準に作られた街や家は、小さな子供にとって大きすぎる。それでも子供の活躍力なら、有り余るエネルギーによって躯体の大きさと釣り合わないくらいにでかい街や家を縦横無尽に駆けまわることができる。

 子供が成長すると、「街は、家は、わたしにとって小さくなった」と感じる。街や家は住宅事情により安易にバックヤードを作ったりベッドルームを無尽蔵に増やせないので、「小さくなった」と感じた子供が無闇に街や家を大型化しないように、小さいうちに教育を施し、身の丈に合うサイズ感を教え込む。園児には保育園と幼稚園、就学直近は小学校と、相応の大きさというのを教え込む。
 中には管理者の思惑が外れ、用意した規格に収まり切らない子供を散見するけど、それもまた管理者ごと牛耳る元締めにとっては想定内。

 はみ出してしまう子は、悪く転べは犯罪者。法が定めた番人職に就いた子供も仕事をまっとうできるし、牢獄で働く者も食っていける。社会組織の中で割り振られた役割が機能し、社会組織がバランスをとっていく。

 逆によく転ぶ場合もある。常識にとらわれない発想力が、人類に新しい発見をもたらすことがある。お国の宝になることもある。人のため、社会のためになったら我々はそれを享受する。

 規格外を組織が意図的に放っておくのには、こうした裏事情があるからだ。

 たいした意図もないのに放っておかれる層もいる。盛りを過ぎてある意味規格外になってしまった▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼人たちである。彼らは働かせようと思っても働かないーー仕事は覚えないは、手は遅いは、間違っても考えないからおなじミスを犯すは、しまいにゃ「昔はこうじゃなかったのじゃ」と、変わってしまった現実に文句をこぼす。

 間違っているのは文句を垂れるあんたのほうなんだからね、わかってる?
 
 でも、加齢老齢には、仕方のないこと。

 動きにくなった思考と体では、社会はあまりに大きすぎる。歩いても歩いても着かないし、我慢できないし、極めつけは少し歩くと帰り道さえ見失ってしまう。

 幼児に相応の器を用意したように、ワシら老人にもあまり移動しなくても済む▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼適度なサイズの街と家を用意してもらえんかのう?
 いろんな器官が衰えたワシらにとって、現代社会の健常者に合わせた街はあまりにデカすぎる。

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