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世界はわりと「ありがとう」でできている。
そのおジイさんは、じっとこちらを見ていた。上り坂の途中で、電チャリを支えたまま止まっている。背が丸みを帯び始めた体は坂の中盤でくたびれていたのに、眼力は健在で、じっとこちらを凝視している。睨まれているのではないことはわかった。神々しく思っていないことも瞬時に伝えている。なのになぜ? 知った顔ではないし、カモにされるわけでもなさそうだ。なのに、ライオンがずっと寝ているように、そのおジイさんはただただこちらに目を向け静かに息をしていた。
厄介ごとに巻き込まれると、ろくなことにはならない。関わらず、知らぬ存ぜぬ、見なかったことにして素通りしようとすると、坂道をぐいと電チャリを押したおジイさんが、すれ違いざま「あ」と声を上げるように口から意志を吐き出した。その「あ」具合がカオナシの「あ」そのものに感じてしまったものだから、つい気をとられておジイさんの視線を受け取ってしまった。しまったぁ。素通り失敗。
しかたない。視線絡まるも他生の縁。「どうしました?」と訊くとおジイさん、待ってましたとばかりに「あ」と安堵を浮かべ、コクとうなずく。
「鍵が。鍵が」。後輪にがっちりハマる円形の鍵が、買い物帰りに開かなくなってたいへんなんじゃ。しかたなくここまで後輪持ち上げて歩いてきたんじゃが、どうして開いてくれんのじゃろ?
訊かれても困る。おジイさんが困っているのもわかった。でも、なぜ鍵が開かないのかはわからない。
「どれ」
ガチャガチャやっても、開く気配がない。きっと内部のバネが折れるかなんかして、つかえてしまったのだろう。
「これを買った自転車屋に持って行こうと思っての」
道の先に、自転車屋は見当たらなかった。少なくとも視界が開けた可視エリアに自転車屋はない。
よっこらしょ。後輪を持ち上げ、再び歩き出そうとする。
ちょっと待って。あのまなざしの投げかけは何だったの? あわよくば助かるかもしれない救難信号だったのに、ダメだったからあっさり諦めてしまったのか? 諦めるにしても、その決断、チト早すぎはしないかい?
それとも不幸な自分をナルシステックに誰かに知ってもらいたかっただけなのか? 解決の糸口さえまだ見つかっていないというのに、話をふってきたおジイさんが早々と立ち去ろうとしている。手紙を読み終える前に白ヤギさんが丸呑みしていったみたいに、話の展開が無情に打ち切られようとしている。
「ちょっと待って。もしかして」
去りゆくおジイさんを引き止めた。
「おろ」たじろぐおジイさん。
「ちょっといいですか」で鍵を抜き、バッテリーのほうの鍵穴に差し込んで回してみると……。案の定、回らない。なるほど、原因はこれだった。
「鍵、間違えてますよ」
いちどは先を急いだおジイさん。意識はとっくに先行していたけれど、そいつをぐぐっと現場に戻し、「そんなはずはない。家出る時に乗ってきたんじゃから」
一方的に切りあげられた話が戻ってきた。なんだか腑には落ちなかったけど、緊張が緩んだ時に出るため息が腹から上がってきた。ふう。
で。「家出るとき、鍵、開けました?」と訊く。
「いや、家では鍵、かけとらん。鍵のかかる車庫があるのじゃ」
「鍵は自転車についていました?」
「鍵は自転車についとらん。鍵置き場に置いてあるのじゃ」
「家を出るとき、その鍵でこの自転車の鍵は開けなかったんですね?」
「開けたかもしれん」
(おや、健忘症と思われるのをやんわり避けて、意地を張ったか?)
「開けませんでしたよね」(状況証拠はすでにそろっていた)
「はい」
(いや別に刑事が犯人を捕まえたわけじゃないんだから、そんな殊勝にならなくても)
訊けば自宅に似た鍵がいくつかあるのだという。
「自転車、重いでしょうから、家がお近くということなら、鍵を持って来られるのがいいと思いますよ」
「だけんど……」
買い物帰り、解錠できない電チャリの後輪もちあげ家まで戻ろうとした強者だもの、マイ自転車を置いてけぼりにはしたくなかったんだよね。それでも。「幸い人通りも車の行き来も少ない広い道。自転車は歩道の隅にでも置いて、正しい鍵を持って来られることを強くおすすめします」
おジイさんに代わって自転車を歩道の端まで移動しながら諭していると、見知らぬ男に持ち去られないことを確認するように自転車にはいたわりの目を、こちらには半猜疑の目を向けてから、おジイさんは礼を口にするでもなく黙と前を向き、家路をたどり始めた。
感謝してほしいわけではなかった。言葉を交わすかどうかは別にして、人と人とは他生の縁で結ばれている。その場で採った行いが遠い将来に何かの形で顕れる。もしかしたらおジイさんが過去に採った善行のお裾分けがあの場に顕れたのかもしれない。
世界に起こることはそれでいいと思っている。
どこかに「ありがとう」に結びつく行為が起こり、モミジを舞い上がらせる秋風が去っていくように消えていく。そして秋風は世界のそこここで起こり、モミジを舞い上がらせては消えていく。それでいい。
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