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虹とスニーカーの頃。

 かぐやが月に帰っていかなければならなかったように、虚実を問わずすべての物語には終わりがある。知らなければすれ違うだけの人生も、袖が触れ合えば他生の縁が生じいて気にかかる。
 そこに縁。えんであり、そしてまたふちでもある。出会った刹那から瀬戸際とは、言い得て妙な漢字が当てられたものである。つまりは、巡り合ったが最後、出会ったばかりなのに崖っぷち、危機的状況が、終わりは今か今かと待ち受ける。
 一期一会と言えば聞こえはいいが、現れては燃え尽きる隕石のような出会いの数々は、ガラスに擦り付ける雲母が消えない軌跡を刻むが如く、重く深い記憶の軌跡を刻んでく。傷の心当たりは、思い返せばたくさんある。年を追うごとに増えていた。

 経験の蓄積は、竹皮を剥くのと似て、到達点たる中身や真意へ近づく手続きだった。傷の心当たりが積み重なってきたことで、今じゃ予感を通り越し、巡り合えば別れと表裏一体と悟りの境地。

 ♪若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい

 捨てきれない思いを抱えて、あのころを追う。

 ♪もつれた糸を引きちぎるように 突然ふたりは他人になった

 恋人ばかりではない。引きちぎられたわけでもない。何十年ものサイクルで恒星同士が近づいては、人の一生を経てもなお足りない悠然たる時間の向こうにしか邂逅しないのと似て、わたしたちの寿命では二度と持てない接点に、こころ、すさぶ。

 ベニシアさんにもたくさんもらった。有名な人たちからばかりではない。世間一般には無名な人たちからもいっぱいもらった。抱えきれないほどもらってきたから整理するのが大変だけど、それらひとつひとつを振り返れば歯軋りではなくいい涙を流すことができるから、きっといい人生を歩めているのだろうと思う。

 竹から生まれたわけではないので月に帰ることはままならないが、土に還ることならそろそろ受け入れられそうな気がした。

 財津和夫氏は結成50年を機に最後のコンサートツアーの途中にある。さぞ腹の座った決意の渦中にあるだろうと思いきや、NHKの特番で「死ぬ気ではやらない」と語っていたのに拍子が抜けた。
 曰く。いちど蝕まれ復元しきれない体で死ぬ気でやると、彼の死ぬ気は死に体になる。精神論では語れない領域で、彼は踏ん張っているのだった。

『猫のしっぽカエルの手』も、TULIP伝説も、物語だった。始まった物語は、ほかの物語と同様に終わっていく。朝ドラも大河も、始まるものすべてが終わっていくように。

 若いうちは新陳代謝サイクルは早く元気で次がある。寂しさや悲しさを膨らませる間もなく新しい希望に空気が入り、ふわりと宙に浮かぶものだから、希望を込めて見上げることができる。だが、蘇生できる皮膚も繰り返しが過ぎたのか、昨今は具合がよろしくない。ちとくたびれてきた感がある。潮時というものがあるならば、今まさにその時かもしれない。新しく蘇生させなくても、新しく宙に浮かぶ希望に顔を上げなくても、これまで抱えてきた思い出貯金箱で足るようになっている。そんな気がしてならない。秋という季節に移ろったせいかもしれない。


【物語は元の鞘に還っていく】




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