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三日月にされた私。

 弘法筆を択ばずというが、鍛錬途中の半人前にとって、執る筆が思うように動かねば、目論見どおり形のよい文字は描けない。弘法のようにはなかなかいかない。アップライトのヤマハは電子のローランドよりタッチが重く、アコースティックのヤマハよりスタインウェイのほうがはるかに重い。重めの鍵盤に手を焼きながら、そんなことをヤマハを弾きながら考えていた。スタインウェイ・アンド・サンズじゃなくてよかった。スタインウェイだったなら、手を焼くどころか心を砕かれていた。
 心頭滅却すれば火もまた涼しというが、悟りを拓いていなければ火は熱いし夏の日の暑さにも手を焼く。肌も焼かれるから涼しさに恋焦がれる。
 夏といえば思い出すのが浜辺の焼きそば売りだ。かき氷にしておけばいいようなものを、苦労を買って出るようにわざわざ暑いのに熱いものを思い出す。夏はまっとうに暑さを享受せよという啓示か。汗を流して体温を下げたほうが、エアコンで誤魔化すよりたしかに体調を崩しにくい。だけど夏にエアコンは手放せない。現代人はスマホを生命線といって憚らないけど、こと盛夏においてはエアコンに軍配が上がる。個人的な事情によるものではあるのだけれども。

 エアコンを慎ましく使う静岡の家に行った。普段はガンガンだから慎ましいと汗も気力もダラダラ流れる。
 静岡の家は実家ではないのだけれども、数時間滞在した。こんなふうに書くと、さもこれから静岡で起こった物語が語らると思われそうだけど、さもあらなん。天邪鬼なものだから、これから始まるのは静岡に着くまでの話。

 東京発東海道新幹線の3人がけの席は、ひとつ置いて中学生らしき男子が通路側に座っていた。混みすぎてもいなかったけれど、そこそこ空席が埋まっている状況だった。出発まで時間があったから車両を出てホームの売店にコーヒーを買いに行った。するとどうだろう。座席に戻れば、ひとつ置いた中学生が姿を変えて、2人に分裂したばかりか外国人になっているではないか。
 中学生はどこに消えた? それも問題ではあったが、それ以上に大きな問題に直面することになった。そうなると消えた中学生の消息を追うどころの話ではない。男女の2人組は男女ともがたいが大きく、真ん中の席に座った男のほうは普通車両の座席に収まり切らず、体が席から両側にはみ出している。圧倒的存在感があって、気圧され、あっという間に思考の大部分を占めてしまった。中学生は、疑問の領域から押し出された。
 男の話に戻そう。彼の肘は自席に収まりきらず、向こう側の肘は女にくっつき、こちら側の肘は窓際席のほうまで高気圧みたいに張り出してきていて、互いに半袖シャツだったものだから伸びた腕の肌同士が触れ合ってしまう。袖触り合うだけなら他生の縁も生じるのだろうが、肌と肌とが触れ合えば、遠慮がちな日本人は反射的に身を遠ざける。物理的に可能であれば。ところが身を引こうにも車両の壁に阻まれて、きゅっと身をよじると三日月みたいな不恰好な姿勢となった。
 そのままの姿勢を保持して静岡まで耐えていると、きっと体質が欠けた月みたいになってしまう。だからといって肘で押し返したところで、彼の体から空気が抜けて縮んでくれるわけではない。仁をもって義をなす日本人だからためらいもある(元々は孔子の考えを孟子が書き残した言葉だから中国の考えとするのが正しいのだけど)。遠慮がちな日本人に生まれたことがなんだか悔しかった。

 こちらが座る姿勢のことで悶々としているのに、あちらさんときたら気にも留めずに2人でよろしくやっている(後ほどローマからハネムーンで日本に来ていることが判明した)。
 と、その時だった。いきなり男、顔をこちらに向けて語りかけてきた。
 まさか、席が狭いから、お前あっちに行けよ、とでも?
 幸い、予期した最悪の事態を迎えるようなことにはならず、大きな体で小さな心配事を相談してきた。相談には乗ってやるから、三日月にさせたままのほほんと訊いてくるんじゃないよ、の心境だった。
 京都に行くんだけどさあ、この切符で大丈夫かなあ、と男は訊いてきた。新幹線に乗っているんだから、専用改札を抜けてきたことは明らかだった。行ける可能性は高いんじゃないの。どこまでの切符を買ったのかが重要さ。だけど問題は京都まで切符を買ったかどうかなんかじゃなかった。訝しみながら出された乗車券を確認した。
 問題は、なさそうだ。
 何を心配している? そんな心配より、それより先に気を遣わなければならないことがあるだろう、三日月になったまま、鬱憤を晴らせずに僕の悶々は続いている。
 すると巨体の男、もう一枚切符を取り出し、見せにかかった。特急券だ。そこには座席指定が書かれている。なんで指定席を取っているのに君らは自由席に乗っている? それこそが問題なのでは? それに指定席に移ってくれれば、こっちの問題も解決する。一挙両得だ。
 さらに切符を観察すると、出発時刻に問題があることが発覚した。彼らは予定の列車に乗り遅れたのだ。ははん。それで納得の腑が落ちた。買った切符で自由席に乗っていることが正当な行為なのか否かを彼らは心配していた。
 大丈夫だよ。指定された座席に着かなくても、特急券で自由席に乗れる。つい数10分前に指定席の権利を失効しても、特急券自体の効力は切れちゃいない。
 そう教えてあげると、巨躯から大きなため息が吹き出された。安堵のひと息はダム湖の水ほど大きく、ひとつ放っただけでダムの水が満杯になりそうなほど深かった。
 それでも肘は相変わらず隣席に侵食していたし、三日月型が解消されたわけでもない。

 そうこうしているうちに新幹線は静岡に着き、僕は三日月型に固まったまま車両を降り、指定席の車両には乗り遅れたけれども、遅ればせながらも予定どおり彼らは京都に向かった。

 文字は薄墨で書いた弔辞用の名前であり、ヤマハは静岡の家にあったよく弾き込まれたピアノである。
 おしまい。

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