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雨脚は、寝待月。

ピアノの音に森を描く。ピアノ曲ではなく、鍵盤を叩くことで軽やかに足をあげるハンマーが、弦をこつんと打つ際に発する、ピアノという楽器の漏れ出る感嘆の息に。

ピアノという楽器に使われている木材は、もしかして、と主人公は思い描いた森から憶測する。信州の森で伐採されたものではないのかな、と。
漏れ出た息は、北アルプスの森の声のように見えた。

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だけど、思惑ははずれた。木材は北欧産。
残念に思う。

『羊と鋼の森』
読中感にさえたどり着かない、読み始め。

内容にはふれようもないほど少ししか読んでいないけれども、感じたことはある。
それは、聴覚が景色を見せる、という真実。
聴覚に限ったことではないが、目がとらえるものとは違った景色を視覚ではない感覚が描くことって確かにある。
秋の陽が「さらさらと」と流れていく音を聞いた詩人もいる。

目は耳であり、音は視覚だ。
風が歌を歌う時、私たちは隣り合う感覚の壁を見失う。

ひとしきり屋根を強く叩いた雨音が急に雨脚を弱めたものだから、期待と不安のふたつに身がまえることになった。

荒天は再び息を吹き返すのか、それともその衣を巻き端折って遠くに去ってしまうのか。

そんな時、地上の騒ぎなど取るに足らないものとして気にもかけない呑気な月が、誰に向けているのかも知れぬ笑みを浮かべているーーこのような光景うかぶ。

目に浮かぶ月は、新月でそっぽを向いているのではない。
二日月の拗ねているようでもない。
十六夜月の躊躇い月とも違う。
寝待月。

顔を出すのが遅く、焦らされたのちにやっと姿を現わすもったいぶった月、寝待月。

寝待月が頭の宙に浮かぶ時、5感の壁は溶け、聞いているのだか、見ているのだかがわからなくなってくる。

雨脚は弱まった。
今のところは。
予報を見る。ネット予報は、これからが雨の本番と告げていた。

夕方まであと少しのこの時間帯、寝待月は見上げる雲の向こうにはない。まだ地平線の内側に身を沈めたままだ。

あれやこれや巡らす思考を洗い流すように、雨がばたばたと雨脚を強めた。
寝待月は、地面の下のほうであっけらかんと微笑んでいる。




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