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金の草鞋を履いた猫。

 力道山の試合に手に汗握った経験はなくても、彼の活躍を知っている人は多いだろう。でなきゃ、力道山の番組など新しく制作されない。
 番組で力道山は出生の真実を語ろうとしなかったと伝えていた。心身ともに破壊された終戦直後、日本人の活力をエンタテイメント面で支えた重要な立役者のひとりは、実の息子にさえ日本で生まれたと嘘をつき通したのだ。名声と人気を博してもなお日本人の仮面を外そうとしなかったのは、偏見による差別があまりに根深かったことによる。
 
 そこで金の草鞋を履いた猫は考えた。差別は誰が作り上げたのか、を。
 たとえば国交が商家ベースに行われているだけだったら、狡さや騙しや有利性、優位性などでバランスが揺れ動くことはあるにせよ、おおむね平和裡に人と人、国と国とがつながっていられるように思う。もちろん最終的には価値観が判断の基準になる。カツオ丸1匹食べたいか、チュール1袋を堪能したいか、物々交換時の変動する価値観は、判断プロセスの重要な決定要素。判断が的確で繁栄に向かう場合もあれば、凋落に向かう場合もある。どちらの波風もたたず、凪の関係が続く場合もある。
 商家は軍隊を率いないから、貸し借りはあっても、侵略や脅しは似合わない、で、やらない。
 問題は、暴力に訴え出る組織を動かせる者が国交の場に登場した時なのだ。人類の中でも頭のいい人たちが少しでも自国が有利になるように、知恵を巡らす。落とし所を黒い腹の底に忍ばせておいて、最初は高飛車に、それで交渉が成立すれば儲けもの、ダメなら少し引き下がり、苦肉の顔で譲歩してみせ、美味しいところは譲るよと平気で騙しきり、その実、特Aクラスの最上級をさらっていく。
 被交渉国だって馬鹿じゃない。取引が不公平だってことをわかっていない訳じゃない。だけど大国を怒らせれば、目ん玉ひん剥きツノを出す、ミサイル飛ばす、核を撃つ……。怖いから、手の打ちどころを渋々探ることになる。
 このようにして均衡が崩れ、人は人の上にも下にも人を作ってきた。これが差別誕生のいかがわしい根源。
 さらに厄介なのは、人の上に立とうと躍起になった人がいて、その人の頭を押さえようとする人が現れて、二大潮流が渦巻いていること。
 
 猫に国境はない。言語だって世界(ほぼ)共通だ。縄張りで争うことはままあるけれど、おおむね平和だ。猫は軍隊を動かせないし、自国と呼べるほど縄張りを広げちゃいない。出生地だって、覚えていりゃあ堂々と言えるし(たとえ野良でも、たくましさにかけちゃ飼い猫以上だから自慢できる)、だから飼い猫が野良に嫉妬することもある。猫は、猫の上に猫を乗せると重くて仕方ないし、下に置くと如実にイヤな顔をされるから、しない。このようにして猫の上に猫は置かず、猫の下にも猫を置かない、が自然の摂理となっている。人と違って「猫類みな兄弟」は理想じゃなくって真実なのだ。
 
 なになに? なに横槍入れてんの? ん? 誰だ? 猫に小判を持たせちゃいけないなんてほざくヤツは。猫だって小判の価値くらいわかっちゃいるわい。小判を持っていると人間が目の色変えるから、めんどうごとが嫌いなオイラたちはおバカなふりをしているだけなのさ。
 そんなオイラがどうして金の草鞋を履いているか、わかっているかい? 人間界ではそうした風潮があるだろう。年上の女房をもらうのに金の草鞋を履いて行けって。道のりは険しいが、ちょっとやそっとじゃすり減らない金属製の履き物を履いて探す価値が年上の女房にはあるってこと。価値のあるものを手に入れるには、苦労がつきものなわけさ。平和で幸せな時間も、本当はちょっとやそっとじゃ手に入らない。苦労して探しまわって、やっと手に入れることができるという訳さ。だから金の草鞋ということなのさ。
 猫は人間と違って、我を通すために愚かな争いは選ばない。地道に、じっくり。
 それにオイラは争ってでも死んで名を残すことなんかより、生きているうちに争わず平穏な心で美味しいものをいっぱい食べておくほうに興味があるんだよね。

【どこかで、誰かが、オイラに美味しいものをくれようと待っている】

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