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子どもの跡。

 赤子に接すると、抑えていた本性が理性の防潮堤を乗り越え顕になる大人がいる。いかつい婆ばでも屈強な好好爺でも、いきなり顔を隠し「ばあ」とやったら、その類。

 幼性スイッチが入るまで、いったい何が本性の堰を食い止めていたというのか。
 他人は見るに耐え難く、本人は至福に浸るその幼児回帰の度合いは、人生で縮めてきたバネの圧縮具合に比例する。グッと頭を抑えつけバネを縮めてきた者は反動著しく、解き放つとけたたましく跳ねて暴れる。
 いっぽう気まま我がまま我全開で、バネをだらりと放ってきた者は、あっけらかんの無関心、じぶん以外は興味の対象外。

 幼児回帰する者も、そこは大人を培ってきた老獪だもの。封じ込めた幼児性をひととおり出し切ると、むくと社会性という理性が起立して、軌道を正す。「ああ、わたしとしたことが」と束の間の馬銜はめ外しを恥じて赤面、こほんとひとつ咳払い、するとたちまち元の大人顔。

 大人だって削れば中身は子どもみたいなものだもの。飽きると次に向かう。

 先日、近所のカフェでのこと。婆ばと娘とその赤子の親子三代、幼児回帰の顛末記。横目でとらえてさっと筆を走らせた。

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