![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/82057392/rectangle_large_type_2_31424c8d3f4042655c0732792f8669a1.png?width=800)
子どもの跡。
赤子に接すると、抑えていた本性が理性の防潮堤を乗り越え顕になる大人がいる。いかつい婆ばでも屈強な好好爺でも、いきなり顔を隠し「ばあ」とやったら、その類。
幼性スイッチが入るまで、いったい何が本性の堰を食い止めていたというのか。
他人は見るに耐え難く、本人は至福に浸るその幼児回帰の度合いは、人生で縮めてきたバネの圧縮具合に比例する。グッと頭を抑えつけバネを縮めてきた者は反動著しく、解き放つとけたたましく跳ねて暴れる。
いっぽう気まま我がまま我全開で、バネをだらりと放ってきた者は、あっけらかんの無関心、じぶん以外は興味の対象外。
幼児回帰する者も、そこは大人を培ってきた老獪だもの。封じ込めた幼児性をひととおり出し切ると、むくと社会性という理性が起立して、軌道を正す。「ああ、わたしとしたことが」と束の間の馬銜外しを恥じて赤面、こほんとひとつ咳払い、するとたちまち元の大人顔。
大人だって削れば中身は子どもみたいなものだもの。飽きると次に向かう。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/82057402/picture_pc_2f17d4d1c16b182dfc1157ba0646bb0a.png?width=800)
先日、近所のカフェでのこと。婆ばと娘とその赤子の親子三代、幼児回帰の顛末記。横目でとらえてさっと筆を走らせた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?