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張りつく。

 老婆がよその客のレジ打ちにかまうことなく、横から消え入る前に絞ったような震える声で「セメンダインありますか?」と若い女店員に声をかけた。ぱつんと弾けそうな顔と笑顔の女店員は、持って生まれた器量から、老婆を邪険にあしらうことなく、レジ打ち待ち客に不快を与えることなくレジ打ちを続け、同時に老婆が伸ばす被救済の手に我が手を差し伸べようとしていた。
 プロの店員として、こなしながら応えたい。言葉にならない心の動きがぱつんと弾けそうな躯体の毛穴から、無数の極小蒸気となって噴き出した。
 ところが、だ。投じられたボールを耳で受け止めることはできても、受けたボールの正体がわからない。「応えたい」の蒸気が路線を移して「????」に姿を変えた。

 セメンダイン。正確にはセメダイン。接着剤のメーカーであり、かつ接着剤の名称である。知る人にとってそれは接着剤の代名詞であり、知らない人にとってそれは「????」である。
 
 栄枯盛衰の経済社会、セメダインは経済歴のひとときを過去、席巻したことがある。接着剤といえばセメダインであり、セメダインは接着剤と同義になった。そんな時代が確かにあった。
 
 老婆は、現役のおそらく最盛期を、セメダインと共に過ごした。接着剤といえばセメダイン。老婆の言葉は、時代言葉の翻訳機を使えば「接着剤ありますか?」と聞こえる。老婆にとって接着剤がセメダインご指名であるとはとうてい思えなかったし、ボンドやアロンアルファなど、セメダイン後、世間の接着剤代名詞争奪戦に勝ち抜いていった新興勢力のほうが馴染みある若い女店員に、接着剤の変遷をなぞった知識が収まっているとは見て取れなかった。
 
「時代言葉に誤魔化されてはいけませんよ。おばあちゃんはセメンダイン、正確にはセメダインと言うのですけれど、それは商品名で、接着剤のメーカーなんです。生きてきた時代の、それも特に強烈な鮮明度をもっていた時期に、接着剤といえばセメダイン、そう刷り込まれているのです。おばあちゃんはセメダインという商品を探しているのではありません。接着剤が欲しいのです」
 そう教えてあげたくなった。
 もちろん、教えてあげはした。出てきた言葉はとっても短く、言いたかったことの10分の1にも満たなかったけれども。
「接着剤を探しているのですよ」
 
 言いたいことってたくさんある。でも、言える言葉は思っているほど多くはない。そして言えなかったことは、出口から出ていくことができず、記憶装置の内側に永久接着剤で貼りつけたみたいにずっと残る。

 ぱつんと張った顔に困惑模様を漂わせていた女店員が、迷った森から抜け出たみたいに、怪しい雲行きの表情をぱつんの笑顔で弾き飛ばし、礼を口にした。
「ありがとうございました」
 ちょうど精算が終わって買った物を詰めたエコバッグを差し出されたタイミングだった。 

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