見出し画像

息を呑む視点を味わう。

気に止まったnoteのタイトルに導かれて、人と話をしていて、本を読んでいて、はらりと剥がれて気持ちに焼きつく視点というものがある。

ああ、そんな見方があったのかと、小さな衝撃を感心が包み込み、それがラッピングされて記憶の棚に収まる感じ。

昨日、明治神宮のオープンカフェに読みかけの本を持ち込んだ。ときおり、原生林という名詞に息を吹き込む粗野な金切り声をあげる野鳥の姿が、鳴き声から浮かび上がった。

晴れているのに、巨木の伸ばす枝葉がテラスに雲のように広がる影をつくっていた。晴れてはいるのに、昼下がりから夕暮れに向かって歩速をあげた時間が、陽だまりであたためた気温を刻々と奪い返しにかかっていた。

J.D.Salinger の Franny and Zooey フラニーとズーイもいよいよ佳境。

訳者は、かつて学生時代に、自分とは似ても似つかぬほかの訳者によるソレを読んだ。評価軸を、おもしろいかつまらないかの視点に置くと、おもしろくなかったーーそんなレッテルが訳者あとがき擬に滲んでいた(サリンジャーは訳者の追記による蛇足を嫌い、訳本への掲載を許さなかったそうだ。だから本には「掲載」ではなく「別紙」という方法で訳者あとがきが貼り付けられている)。

物語は、今のところ平坦だ。黙々と緩やかなハイキングコースを登っているような感覚。ハリウッドばりのスケール感もなければ、フランス映画ふうのひねくりまわしたアンニュイ・憂鬱からも距離を置く。

淡々と描かれる物語に、ハラハラどきどきワクワクするドラマチックな展開はない。今のところは。

だけど、交わされる会話に、とらえられる描写に注ぎ込まれた表現に、目を止めないわけにはいかなかった。

かつて向田邦子氏の表現に衝撃を受け、その表現の構造が知りたくなって、メモをとりながら読み進めたことがある。
読み終えて残ったのは、メモすることに気を削がれ、内容をよく理解しなかったという不甲斐なさと、本の3分の1ほどにもおよぶテキストの山であった。
メモするまでもなかった。本をそのまま取っておくのと大差なかったから。

サリンジャーの表現にも似たものを感じた。
時代が違うので引用も表現方法もセピアがかってはいるけれども、文章の役割を、そして描き出せる輪郭を意識し、まっとうさせようとしていることが伝わってくる。

私たちの書く文章のほとんどは、これまで習ってきた基礎だけで構築されたものが多い。ほとんどがそれだと言ってもいいくらいだ。
それでもかまわないものもある。ストーリーが個性的で勢いがあれば、それはそれで成立する。
対して、表現の妙という文章がある。こちらは「抉る」のに適している。誰にでもおいそれと真似られない、経験を意識的に積み上げてきた者、もしくは才能に恵まれている者だけに許された聖域。限られた者の筆だけが、その世界に足を踏み入れることができる。サリンジャーの文章には(訳者の意識もおおいに関係してくるのだけれども)、それを感じる。

どうあがいたって、追いつくことのできない領域。
だから、浸らせていただいている。同じところを何度も目でなぞるから、読む速度も牛歩のごとし。
メモは最小限に。
でないとまた物語に置いていかれてしまう。

読み終えるまで、もう少し。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?