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火種。

 それは最初、小さな火種でした。見なかったことにすれば、自然消滅しそうなほど些細なもののはずでした。
 閃光が四方に四肢を投げ、腕は抱き、脚は開き、その後、収縮したあとの残り火。燃え上がった炎は甘く切なく激しいものでしたけど、通り過ぎればどんな音色も間抜けに間伸びするように、炎の熱は通り過ぎた瞬間から褪せはじめたのでした。
 恋に恋する乙女が淑女の殻を食いちぎり、その牙を剥いただけのことなのです。女にはそんな激情がたまに走るのでございます。情念の渦がいったん臍の奥に灯ると、燃え尽きるまで止まることはありません。
 私はそれを欲望の野火と呼ぶことにしています。あら、欲望の野火の最初の出現は、いつごろだったかしら。あまりに遠くのことなので、よく覚えていませんわ。そして野火が出るたびに燃やし尽くして、それから粛々と元に戻っていくのです。いつものことでございます。

 その野火さえ気づかれないもののはずでした。死んだ貝のように固く口を閉ざし、気配にラップをかけて、さらにその上からぎゅぎゅっと蓋を締め込んで。きれいに密閉されてさえいれば、野火は最初からなかったものとなり、私の地球は今日も昨日と同じようにまわり続けるのでございます。天変地異など、SF小説にまかせておけばいいのです。

 なのに。
 昨今の男は、昔の女みたいに鼻が効くようでございます。勘がいい、ということですね。口を閉ざしていようとも、きな臭さが雄弁に結んだはずの口から漏れ出ていたのかもしれません。灰になった火の素が醸す真実の煙、とでも申しましょうか。

「ごめんなさい」
 威圧に気圧され、つい認めてしまったわけでございます。認めたことはたいへんな失敗でした。後悔もしています。
 でも、いくら後悔しても、時間は元には巻き戻せません。
 元の鞘に戻るか否か。私は今、審判の時を待っているところでございます。

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