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「捜してくれたの?」

 明鏡止水に微塵の木の葉を落とすような静かな始まりだった。
 noteで立ち寄った、とある方の投稿が目にする風景の色を変え、気持ちが揺らいでしばらく誘惑の淵を彷徨った。いつか観よう、近いうちに、という思いが空転しているうちに2日経ち、3日が過ぎて、タイトルを失念してしまう。
 映画のタイトル、なんだっけ?
 絵画関連の映画だったけど、絵の具という文字が入っていたような、いなかったような。
 
 絵の映画だとしたら、物語の中で描かれる作品はどのような作品だろう、といった別方向から差し込む好奇の光が、見失ったタイトルを探し始めて気を揉んだ。
 
 映画のタイトル、思い出そうとしても、途切れた糸をたぐることはできなかった。
 残された道はひとつしかないことくらいわかっている。閉じてしまったnoteの中から目当てのタイムカプセルを見つけだすこと。床一面に多層に敷き詰めたピンポン球の中から、紅い点印のついた1球をたどるような旅である。ひとつひとつ丁寧にひっくり返し調べては、行きつ戻りつ、探し始めた。
 
 ところがだ。意志を固くして探し始めると、なかなか見つからない。
 探し物はなんですか? 陽水の歌が聞こえているうちは気楽でいい。人は所詮「食う、寝る、遊ぶ」の生き物さと、人生舐めているうちはお気軽でいられるけれども、見つからないとなればいよいよ人は顔を蒼くする。
 見つからない。
 なぜ?
 這いつくばってベッドの下まで探してみても、ニンゲン、躍起になると、歴史が教えてくれた定石どおり、なかなか目的の地が見えてこない。
 幾多の障壁にぶち当たり、くじけうなだれ、打ちのめされた。読書も終盤、主人公の座右の銘なんだっけと前半20ページから30ページあたり、確か左ページ後ろから数行目に書かれていたはずという記憶を頼りに探すも徒労に終わった過去の悔恨が呼び起こされ、駄目押しみたいに重なってくる。
 出会う一期一会は1枚1枚鮮明な別物なのに、過ぎてしまえば一緒くたの過去。瓦礫までところかまわず放り込んだ記憶のハードデスクからたったひとつの真実を抜き出すのに、くたびれかけたCPUでは、肩の荷が重すぎた。
 
 フリーズしてはクールダウン。それでもインターバルを置きながら、諦めずに探した。
 
 そして、ついに。

『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』

 たどり着いたあ。
 
 到着したばかりでも、やっとのことでの到達だもの。待ちきれず、間を置かずに再スタートを切る。
 
 動画再生、ポチ。

 雑音に満ちた都会に慣れ親しんだ耳では、最初、物語に流れる声はあまりに遠すぎて、心に届かなかった。15分で、残りは翌日に持ち越し。以降、2時間弱のドラマを1日15分ずつ、連ドラ形式に置き換えて視聴することになる。
 どうしても観たいなあ、と思った映画だったのに、この体たらく。はずしたかな、と小さな後悔が尾を引く。
 だけど、それだけで終わるわけがなかった。投稿は大絶賛だったんだもの。そのことに早く気づくべきだった。
 明鏡止水に、バンと手のひらで打ったみたいな衝撃波が走った。湖面はいちど大きく沈み、エネルギーを溜めてから波をせり上げたのだった。
 時は最終クォーターに差しかかってから。辛抱の努力虚しく、どうにもこうにも流れ始めた涙が止まらなくなった。

 佳境に突入してからは、物静かに囁くだけだったはずの物語が声量を増し、意味を深めて皮膚から染み入ってきた。体内に入り込んだ無言の大波は、五臓六腑で醸成し、増殖し、逆流するように頭皮の、腹皮の、かかとの角質に至る毛穴という毛穴から吹き出し、我が身を内側から揺さぶりにかけた。
 
 このようにして静謐の物語は突如、内なる嵐を巻き起こす。

 ひとり自室隔離に身を委ね、凪の精神状態で覚悟を決めて臨まなければ一気観はかなわなかった、と振り返ったが、あとの祭りの後日談。
 
「捜してくれたの?」とモードが問いかけるシーンがある。探し当てた映画の「捜してくれたの?」の台詞には、映画を観た者にしかわからない寂寞で仇波止まぬ慟哭が走る。

 エンド・ロールで、実在したカナダの画家、モード・ルイスの描いた絵画の数々が、制作関連者のテキストに紛れ、はにかむように顔を出す。誤解を恐れず確かな色を当ててはいるけれども、そのどれもが人生の河口で角が取れ丸くなった石のように、柔らかく優しい眼差しで描き切られている。

 いい絵を見た。
 いい映画を観た。 

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「愛してくれていたの? 私を」
 銀幕でぼそっとこぼしたモード・ルイスが、今でもはにかみながら口元を緩ませている。


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