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ある中小企業トップの決断。

「社員全員が路頭に迷うことになるわけでしょう? なのにどうして誰一人、社長に詰め寄るようなことしなかったんですか? 会社都合だからすぐに失業保険をもらえるでしょうが、給料と同額が出るわけではないし、再就職するにも条件が不利になってしまう社員もいる」
「もっともな話ですね。確かに再就職に不利な人も出てくる。だけどひっくるめて考えると、多くの社員にとって有益だと社長は考えたのだと思います。
 社長はご存知のように、豪放で磊落な人だ。いっぽう漢気が強いというか、強過ぎて一本気な人でもある。時と場合をわきまえずに、後先考えることなくやっちゃうこともある。つまりは駄々っ子だ。社員はそんな社長を信頼してもいるけれど、モノを申して通じる人だと考えちゃいません。だから文句を言うことをしなかった。詰め寄るようなこともしなかった。そうした現実も確かにあります。
 だけどそれ以上に信じているからこそ、社長が決めたことだからと納得しようと努めたのだと思います。そして、判断せざるを得なかった社長の心中を察したのだと」
「だから、いきなりの最終通牒を素直に受け取ったと?」
「ええ。
 全容が見えていない今、推測でしかありませんが、おそらく社長は発注元に春闘のように請求額アップの進言をしたのだと思います。昨年よりはじまったインフレが、今後ますますエスカレートしていくことが目に見えていますからね。
 社会の潮流は労働者のベースアップの背中を押している。
 実際問題、給料が上がってくれないと、暮らしは貧窮していきますからね。天変地異を起こして、社員にこれまでとはまったく違ったいい暮らしをさせようなんて、社長は微塵も思っちゃいません。でも、生活基盤を侵食しはじめた物価上昇の魔手を少しでも和らげたかったのだと思います。微々たるものでも、交渉でどうにかなるものなら挑む価値はあるだろうと。だから……」
「賭けに出たと?」
「おっしゃるとおりです。
 むろん社長は、悪いほうに転んだ場合の社員のいく末も考えていたはずです。発注元が要求どおり支払いの金額を上げてくれれば社長は社員を引き止めに走るでしょうが、それが叶わず仕事を切られれば、もはや社員を雇い続けることはできません。
 でも、幸いなことにこの業界は慢性的な人手不足です。どの会社も経験者の確保に躍起になっています。ニーズは確実にあるのです。社会がインフレに動いている時期に転職を持ちかければ、欲しい人材に高めの給料を支払うこともするでしょう。転職は働く者にとって追い風となるタームに入ったのです。
 ただ体が資本の世界ですから。再雇用で働いていた方たちは、言っちゃなんですが、だいぶくたびれてきています。打ち止めと言われても致し方ありません。余生は年金で、という話になるかと思います。社長がいちばん心を痛めたところだと思います。
 とはいえ年金組は20数名の社員のうち2名しかおりません。社長の賭けが失敗しても、残りの社員全員が救われることになるのです」

 それ以上、返せなかった。訊きつづければ、塞ごうとしている傷口をこじ開けるみたいで、自分がイヤになりそうに思えたからだ。過酷な業務に緩急はあったけれども、雇用は安定しており凪の安定をもたらしていた。その雇用状態に大波が襲ってきたような突発的なアクシデントに見舞われはしたけれども、瞬時に社長は最善の方法を採用したのだということを思い知らされた。

 社長の賭けは、勝てば継続で昇給、負けても2人を除いて他社で昇給。

「いずれにしても、多くの社員が救われる選択だったと」
「そうです。そのとおりです。納得していただけましたか」

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