ふたりのみ~無口なすき焼き~
最近、妻にどう話しかけたらいいのかわからない。
グツグツと音を立てる鍋を気にするふりをしながら、わたしは妻を盗み見た。
以前の妻はもっとおしゃべりだった気がする。
「今日はスーパーで大根が安くてね」
「雄太ったら算数がとっても得意で、先生にもよく褒められているんですって」
記憶の中の妻はいつだって朗らかで笑顔だ。しかしいまは必要最低限のことしか話しかけてこなくなってしまった。それがいつからだったかわからないのだけれども。
一人息子の雄太が成人し、自分も先日定年退職した。いままでは管理職だったということもあり、日々忙しく家のことにはちっとも構うことができなかった。その分今後は妻とふたり、ゆっくりと日々の生活を楽しもうと思っていたのに。
湯気越しに見る妻は、ただ黙って規則正しく口を動かし続けている。
「……この肉うまいな」
「いつものスーパーのお肉です」
「……そうか」
「……」
「……そういえば最近土曜日はいつもすき焼きだな」
瞬間、妻の目がひゅうっと釣りあがる。
「……そうですね。そう決めましたから」
「……」
「まぁ。あなたはなにも覚えてはいないでしょうけれど」
棘のある言葉にたじろぐ。
「そ、そうか。そうだな決めたな」
妻は大きくため息をつくと、再び鍋に目を落としてしまった。
ぐつぐつぐつ。鍋の音がする。
「……」
「……」
「あ……あ、そうだ。前の取引先からもらったビールがあるんだが、一緒に飲まないか?」
「ビールは苦くて苦手です」
「でもフルーツのビールなんだよ。俺もまだ飲んだことないんだけどさ。ほら、岡山本社の会社のやつでさ林っていただろう?そいつがくれたんだけど、マスカットを使ったビールらしくてさ。俺甘いのあまり好きじゃないからさ、手伝ってくれたらうれしいというか……」
「……それじゃあ少しだけ」
いそいそとグラスを持ってテーブルに戻る。グラスに注いだビールは美しい黄金色だった。
「じゃあ……乾杯」
カチリとグラスを合わせる。
妻の顔を盗み見ながら口に含んだビールは想像していたのとまったく異なる味がした。思わず「え」という言葉が漏れる。
なんという果実感。これは本当にマスカットを食べているような感覚にさえなる。後から追いかけてくるのは麦の持つまろやかな甘み。思わず妻と顔を見合わせる。
「これ、おいしい。全然ビールじゃないみたいですね」
「本当だな。いやあびっくりした。こんなビールがあるのか」
妻は驚いたように目を見開いたまま二口目を飲んでいる。
「この年になっても知らないものもたくさんあるのかもしれないな。岡山、そういえば行ったことなかったな……今度二人でいってみようか」
するりと口から滑り落ちた言葉に自分で驚く。会話もロクにしてもらえないのに、旅行なんて行きたいわけ……恐る恐る妻の顔を見ると、少しだけ目を細めてこちらを見ていた。グラスを両手で抱え、ポツリとつぶやく。
「毎週土曜日はすき焼きをする。そして日本各地、たくさん旅行をして見たことがないものを見つける」
「……」
「雄太が生まれて、育児がうまくいかなくてつらかった時あなたがしてくれた約束です。手伝えなくて申し訳ない。でも子供の手が離れて、自分が退職したら絶対にいまの分を返すから。一緒に楽しい老後を過ごそうって」
うっすらと記憶が戻ってくる。そうか。そんな約束をしたのかもしれない。あの当時仕事が佳境で、なにひとつ妻のサポートをしてやることはできなかった。
いつからだろう、妻が一人でがんばることを「当たり前」と思ってしまうようになったのは。
「……申し訳なかった。苦労をかけた」
「べつにあやまってほしいわけじゃないです。ただ……忘れられていたのが少しだけ悲しかっただけです」
妻は再びグラスに口を付けた。
「……岡山、まずは岡山にでもいってみるか」
「そうですね」
ぐつぐつぐつぐつ
鍋の音を聞きながらマスカットピルスを飲み下す。
早速明日書店にでも覗きにいってみよう。
ほんのりとした麦の余韻が舌に心地よかった。
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