「代表作」とは何か

映画批評家の廣瀬純は、『シネマの大義』504ページで次のようなことを言っている。

「すべての偉大な映画監督のフィルモグラフィには、同監督による他のすべての作品にも当てはまるようなタイトルをもつ作品が必ず含まれている。D・W・グリフィスの『国民の創生』、セルゲイ・エイゼンシュテインの『全線』、ジョン・フォードの『静かなる男』、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』、ルキノ・ヴィスコンティの『揺れる大地』、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』、オーソン・ウェルズの『フェイク』、小津安二郎の『お早よう』、アラン・レネの『世界のすべての記憶』、ジャン・ルーシュの『私は黒人』、マノエル・ド・オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』など」〔文中の映画製作年は省略した〕

「すべての…必ず…」といった、廣瀬の読者にはお馴染みの「決めつけ(てみることで思考を駆動させる)」表現も見られるが、あるタイトルが同監督の他のどの作品につけられていてもおかしくないようなもの、すなわちその監督の特異性を十全に表現するにふさわしい言葉たりえている場合がある、という指摘は興味深い。そこから色々考えを広げてみることもできる。

すなわち、もとよりこの定義が絶対不変のものではない以上、例えば「私ならオリヴェイラの一本は『不確定性原理』(『家宝』の原題)の方がいいと思うんだけどなぁ〜」といったように、各々が「自分にとっての〇〇」を切り出して語ることができるということだ。それは、その人がその作家のどういう点を見ているのか、ということの証明にも必然的になるだろう。そしてもちろん、このリストに挙がっていない名前について「私の一本」を考えるのも楽しい。

例えば私にとってのプログレッシグ・ロックは、いつでもイエスとピンク・フロイドの二極で揺れているのだが(揺れているというより、ある時は完全なイエス派、またある時は完全なフロイド派である)、先述の意味でのイエスの代表アルバムは『Close to the edge』をおいてほかにないし、ピンク・フロイドのそれは『The Wall』だ。

イエスの方から説明すると、まずこのタイトルを「危機」という定着した訳語よりむしろもっと即物的な「端の方へ行く」(臨界まで行く)といったようなイメージで捉えている。イエスが私に見せてくれるのはいつも背中だけで、こちらに何も(共感可能性といったものを)手渡したりはしてくれず、その動きは音速で、捕まえようとする気すら起きない。歌詞の意味ではなく音の響きがあればそれで十分。ただどんどん遠くなっていく背中を追いたいという気持ちで聴くだけだ。

他方私にとってのピンク・フロイドは、まさに「壁」のイメージとしてある。映画『2001年宇宙の旅』で屹立するモノリスのように、ひとつの巨大な問いとしてこちらの眼前に立ちはだかっている。それは解釈を誘うし、軽快な気持ちで聴くというよりは腰を据えて聴きたいものだ。

以上はあくまで私見で、分析的で具体的な記述では全くないが、このようにしてそれぞれが、各々にとっての「代表作」を探してみるのも楽しいのではないか。

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