「自分を入れる」ことについて

先日、友人とウェス・アンダーソンの『アステロイド・シティ』という映画を見に行ったときのこと。友人は先に席(D−1番)をオンライン予約しており、遅れて行った僕が対面窓口でチケットを買おうとして、こう言ってしまった。「隣に友達がいるんで、D−2をください」。このおかしさがわかるだろうか。「隣に友達がいるんで」という情報は、販売員の方からしたら全く不要で、ただ「D−2ください」と言えばいいものを、瞬間的に色んな思考が頭をよぎってしまって(例えば「Dー2」だけ言ったら「隣にお客様いらっしゃいますがよろしいですか」「あ、それ友達なんです…」などの二度手間三度手間とか)、その結果「自分の情報」に過ぎないものを足してしまったというわけである。

これはあくまで一例であるが、会話をしていてこのように「自分を入れて」喋ってしまうタイプの人はけっこういるものだ。これは直そうと思ってもなかなか直せるものではない。瞬間的に「入って」しまうからだ。こういう人はたいてい話が長くなる傾向にあるので気をつけたい。

しかしそんな「自分を入れる」もしくは「(スイッチが)入る」という感覚も、全面的に悪いものではないということも書いておきたい。バナナマンやラーメンズのコントを見ていると、舞台全体の流れとして必ず最後の方にはエモい瞬間が訪れることになる。その時彼らは一瞬にして「入って」いるのだ。これはもちろん演技としてやっているのだが、自分の世界に「入って」モノローグすることでお客さんに感動を与えることもできるという例だ。ところが、ただ闇雲に、独りよがりに「入れば」いいということではない。その例としてラーメンズの「器用で不器用な男と不器用で器用な男の話」というコントを見てみよう。このコントでは最後に小林による片桐への長台詞があり、コントの展開として聞かせどころだ。それまで笑って見ていた観客も空気が一瞬で変わる。ただしラーメンズが巧みなのは、その変化に鼻白んでしまう客が出ないために、エモシーンに前半からの伏線であったトイレットペーパーを衝突させることで、笑いあり感動ありという状況を作り出しているところだ。片桐に本気で語りかけている小林(をちょっとさらに斜めから見てますよ…)という作り。自分語りをする人がイタくならないための奥義は、ひょっとしたらこの「道化的レイヤー」(自分はこんな道化を演じていますよーというメタ視点)にあるのかもしれない。

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