大根演技論序説

私たちがテレビや映画で俳優の演技を見て「うまいなぁ」と思うとき、それはほとんど「自然な演技だなぁ」ということを意味していると思う。「自然な」というのは、場に馴染んでいる、見ていて違和感を持たない、ということだ。
反対に、場に馴染まない、不自然な、つまり下手な演技のことを「大根演技」と言い、そうした演技をする人は「大根役者」と言われる。この言葉を肯定的な意味で用いた例は寡聞にして知らない。だが私は大根にこそ黄金の鉱脈があると思っている。もちろん「うまい演技」の素晴らしさを批判したいと思っているわけではないが、うまい演技だけが良い演技だろうか。大根ってそんなに悪いものだろうか。
演技について書かれた多くの書物の中に、あるいは語られた多くのメソッドの中に、ひとつだけでも「大根演技」について大真面目に語ったものがあってもいいのではないか。「下手=考える価値なし」と足蹴にしてしまうのではなく。
もちろん、大根を目指すというのはどこかおかしな表現だから、実際に演技をする人が大根になろうと思って努力することは今後もないだろう。だが、すでに何万人という人が演技をしているフッテージを所有している私たちが、その中から大根演技らしきものを探してきて集めたり、その素晴らしさを語ったり、その特異性の法則を明らかにしたりする日は来てもいいと思う。
そして私が考えるに「大根」とは演技の問題だけには留まらない。「大根」とは簡単に言ってしまえば違和感のことと言ってもいい。誰もが生きていて色んなことに違和感を感じるが、その違和感に肯定的な言葉を与えるという営みこそ「大根を見る」ということなのだ。
そしてそんな目が養えたなら、今度は自分自身を大根化してみてはどうだろうか。つまり、他者に対して問題提起的な存在として生きるということだ。私たちの多くは、解答することにばかり長けていて、問題を問う力、しかも既存の問題ではなくそれをすり抜けてオリジナルな問いを発する力を持っていない。うまい演技にではなく大根演技に注目するということ自体がその問いの試みのひとつだが、やがては自分そのものを大根的なるものへと生成させていくことができたら、一体どうなるのだろうか。
大根の世界へようこそ。

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