錨について

〈序〉を拒むこと。これが最近のオブセッションである。

…といきなり始めても訳がわからないと思うが、まさにこの時の「訳がわからない」という感覚について語りたいのである。幕がゆっくりと開き、読者が丁寧に作品世界へと導き入れられてゆくようなそんな〈序〉を拒み、いきなり渦中へ引きずり込みたい。あるいは引きずり込まれたい。そんな欲望がある。
〈序〉はダサい。本の前書きほどかっこ悪いものはないのに、あまつさえそれが「皆さん、こんにちは。〇〇(著者)です。今日皆さんと一緒に考えたいのは…」みたいな書き出しだったら吐き気がする。そんな本は読む必要がない、というのが本音だが、グッと堪えて前書きを飛ばし読みする。反対に、内容がイケてるという本はたいてい前書きなどないか、あっても例の「いきなり渦中」タイプだ。
小説には前書きがないから、その時点で評論より優れていると言った人がいた。気持ちとしては大いにわかる。ただしフィクションの出だしでも前書き的機能を果たしている例はいくらでもあるが。
例はいくらでも挙げられるのだが、例えば本ではなく映画の例でもいい。エドワード・ヤンの『恋愛時代』という映画は、ある男(それはバーディという長髪のチャラ男なのだが、最初はそれすらわからない)がローラースケートを滑るその足元だけが映され、次のカットで男の全体像、ここが室内であること、などが示される。つまり部分→全体の順番でものが示される。この映画は全てがこの順序通りに進む。チャプタータイトルのような形で時々黒画面に文字が映し出されるが、それはあらかじめ全体を提示するものではない。そうではなく、その後のシーンの中のある部分が文字として先に示される。ここでも部分→全体の順序になっているのだ。
もっと細かい話をしたいがDVDは売ってしまったので今日はできない。とにかく、観客を一気に渦中へ投げ込み、そこから始めるタイプのフィクションが個人的には好きだ。
そのことを人にどうわかりやすく伝えようかと考えた時に、船の錨(いかり)のイメージが思いついた。ものすごく重い錨を船からバーンと落としたところをイメージして欲しい。錨は真下に向かって一気に落ちていくだろう、海の水の抵抗もほとんど受けずに、一気に、真下へ。これが僕が理想とする読者誘導だ。対して、軽い浮き輪みたいなものを海にポーンと投げると、水面をあっちへヒラヒラ、こっちへユラユラと撫でるばかりで、一向に議論の核心へ降りていかない。これが僕の嫌いな〈序〉でできた本だ。
もちろん、最初の数ページだけの話をしているのではない。あるところで一気にガクッとトーンが変わったり、因果関係が追えないほどステップを飛ばしたり、そういうのも魅力的だ。例えば徹子の部屋でタモリが、これからどういう時代になりますかねという質問に対し「新しい戦前…」と答えた時、それをリアルタイムで聞いた視聴者の中に「そうそう、そう言うと思った」と思った人はいないだろう。むしろその発言をするに至った階梯の踏み方が、今見ても辿れない(後追いで理路はわかったとしても、それでも何か段を飛ばしたような感じがある…)からこそ、「名言」と呼ばれるのだろう。読み手に理路が容易に辿れてしまうようなものは名言や名作にはなり得ない。かならずどこかで断絶がないといけない。
俳句の夏井先生が、説明的な句に対して「もったいない」と言うのだが、添削された側は、説明的にした方が風情があって良いと思ってた、というやりとりがあったが、同じ日に読んだ小中千昭のホラー映画の作劇理論においても「因縁話(実はこの家で過去に自殺者が出たんですよ…みたいな因果関係の説明)はつまらなくなるからやめておけ」という記述を読み、やっぱりその道のプロというのは近いことを考えている者だと感心した。
流れは大事だが、どこかでそれを切断する一閃がなくてはいけない。これを別の言葉で言い換えると、歌人の穂村弘が提唱した「ワンダーとシンパシー」の話にも繋がる。あらゆる表現は、人に対して「あるある」と思わせる部分と、その反対の驚きと二つから成る、というのが骨子だとすれば、主に僕はワンダーの方を今日は語ってきた。もちろん僕の中にもシンパシーを好む部分があるが、それはまた言葉を変えると「フェイストゥフェイス」の問題であり、ワンダーは「サイドバイサイドサイド」の問題だ。
前にピンクフロイドとイエスを表面的に対比させた時に書いたが、人が対面すると、相手の顔が見えて安心、これはシンパシーの方だ。反対に背中が見えるだけでなにごとか不安であり(ストローブ=ユイレの『あの彼らの出会い』は延々背中を映すことであらゆるメジャー映画に挑発をかける…)ましてやその背中が遠ざかっていくことは双方の孤立を意味する。共感の論理VS孤立の非論理。共感の論理を支持する者は、同じ共感の論理を支持する者と連帯することで己の完全性をいよいよ高めて誇るが、孤立の非論理を有する者はその定義上同族の者と群れるわけにもいかず、ただ自らの孤立という行為によってのみその非論理を示し続けるのみだ。これは孤独な戦い?だが、僕はこちらを支持したい。
有名な人、インフルエンシャルな人を僕は「声でかい人」と呼んで、そうはなりたくないとずっと思い続けてきた。幸いなことに?今も有名になる気配などなく(まあそれは単に力不足なだけというのが理由の大半だが)、周りから見ればきっと「この人何やってんの」的な生き方である。その話というより、そうやって「声小さく生きたい」とずっと思っていたら、今年に入ってから声がほとんど出なくなってしまった。耳鼻科に行っても声帯に何の異常もなく、精神的ショックを疑われてしまった。こんな形で物理的に「声小さく」なるとは。
自分の話はどうでもいいのだが、だいぶ話を戻して、俳句の添削を受けた芸能人が「因果関係があった方が良かったと思ったんだけど…」という場面、これをもう少し定式化しなおすと、「自らの無能力を自らの最高の力能と取り違える」人、となるだろう(こんな表現がスピノザの中にあったような気がする)。
こういうパターン、結構あるのである。マルクス『資本論』の解説書を読んでいて、著者のロジックがよく出ていると思った箇所があった。資本主義の精神をひと言で言うとすれば「もっと、もっと」であるが(もっと発展、もっと拡充…)、その「もっと」を多くの人は人類の進化、文明の進歩だと思って言祝いでいるのである、と。もちろんその「もっと」の中に「もっと環境破壊」も含まれてしまっていて、それだからSDGsと騒がれているわけだけど、ともかくその「もっと」を喜んで迎えている人が多い、というのが著者のロジックである。それって人類の進化じゃなくて、資本の深化なんだよ、と…。
それに対して「いや、喜んでるならその方が良いじゃないっすか」と返すと、必ず相手と話が噛み合わなくなる。今日『ロスト・イン・アメリカ』という本を久しぶりに読み返していたら、非常に優れた2人の監督が『タイタニック』について言い争っていて、その双方の観察ポイント、言い分ともに面白いのだが、結局話が噛み合わないのはどこにおいてかというと、A「〜〜。ここは許せない」B「〜〜はわかるけど、それで何が悪いっていうの。いいじゃん、それで」A「いや…」という感じで、ある種の開き直り的なところがあるかどうかでどうしても話が合わないのだ。
これと似たパターン。何かを批判された人が「いや、そこは意図したうえでやったことであって…」と反論することがあるが、意図してたからどうなんだよという再反論…。この種の議論を延々と続けられる胆力は自分にはない。そういうのを読んでいるだけでもどっと疲れる。トークイベント的なものに昔はよく足を運んでいたが、壇上で喧嘩する人らもけっこういて、もうあまりそういうのに行く体力はないと思ってしまう30代であった。
…と色々書いてきて、書きながら話がどんどん飛んでしまった。断絶はあるが、横滑りしているだけでまったく深まっていっていないのはわかっている。つまり僕自身あれほど嫌悪したあの悪しき〈序〉(しかもとびきり長いそれ…!)を自分で書いてしまっているということにも途中から気づいている。意図していたからどうなんだ…と話がループしてしまっては仕方ない。断絶+横滑りは一番やってはいけないとわかっているのに…。
愛聴しているラジオ「パラキートシネマクラス」で、先日「パート2理論」という興味深い話を聞いた。自分の持ち札、あの話できそうこの話使えそう…という可能性をすべて消尽させること。これがパート1の行程であって、まったく手札がなくなったその状態で始める執筆こそパート2なのだ。これは古井由吉が言った「小説は、書くことがなくなってからが始まりです」という言葉とも響きあう、実に啓蒙的な理論だ。
一方の僕が考えた理論といえば、「ウニ理論」とか「チョロQ理論」だとか、その全容を書くだに恥ずかしくて震えてしまうほどのものばかりであった…。だからこそ、である、このnoteは遠慮せずにどんどんパート1やってこうというのである。幸か不幸か僕の手元には手札がまだたくさん残っている。まずはそれを全部捨てていかなければいけない。自分の知の先端で書くこと、と言った『差異と反復』の序文(しかしそれはただの序文ではない、僕が今日書いてきたような序文批判から始まるメタ序文だ)を思い出す。自分の思い出をエサにして書き繋いでいくのは、まったくダメなことではないが、いずれ終えなければいけない。過去を培養させてその栄光を貪ること(「俺昔ワルだったんだよ…」のかっこ悪さ)ではなく、今この瞬間に見えたもの、見えているけど見えていなかったもの(観察によって見えてきたもの)を書くことの方がはるかに有益である。と、わかってはいてもなかなか頭の回路がそうはなっていかないので、今後このようなマニフェスト文をまた何十回も書いてしまったとしても、それは許してほしいのである。『50回目のプロポーズ』だっけ、ああいう感覚は自分の中にけっこうあるのであった。

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