ジョン・レノン「イマジン」

ジョン・レノンの「イマジン」を皆どういうふうに理解しているか、ちょっと聞いてみたい。

というのも、この間とある人がラジオで、他者に対する思いやりが足りない人に向かって「お前イマジン聴けよ!」と突っ込んでいたのを聞いて、「これは違うんじゃないか…」と疑問に思ったからだ。
「違う」とは言っても、私が最初に学校でイマジンのことを教わった時もおそらくこれと似た文脈で教わったから、それはある一定の人たちに見られる徴候的な理解の傾向なのではないかと思ったのだ(ちなみに私の通っていた学校はキリスト教系だった)。

それはどういう理解かというと、端的に言えば「理解の及ばない他者を思いやる」タイプの他者論、あるいは彼方に思いを馳せる夢想家タイプの理解だ。

特に深く考えたことのない人にとっては、おそらくこの曲は「平和な世界を想像してごらん」的なメッセージソング止まりだと思う。それが間違っているとはもちろん言わないが、しかしイマジンは、今ここにはない平和なユートピアを夢想する曲ではまったくない。

というか、そう聴くこともできるのだが、事柄をどう捉えるかが大事なのである。すなわち「今ここ」重視で聴くか「いつかどこか」重視で聴くか。

私はイマジンを、徹底して「今ここ」を重視する曲だと理解している。「イマジン」という言葉に引っ張られやすい人は、彼岸を想像する曲だと思いたいのだろうが、歌詞をよく見てみよう。まず出だし。
Imagine there’s no heavenと、いきなり彼岸の存在が否定されている。このImagineは「想像しよう」と訳すよりも、少し強く「〜と捉えよう」と訳したらいいのではないか。つまり「天国などないものと(今)捉えよう」という今ここの技法。

No hell below us  Above us only skyというところも、地獄の否定とともに、我々の頭上にあるのは(天国ではなく)ただの空だという強い認識がある。
Imagine there’s no countries  It isn’t hard to doというところも、夢想すれば簡単にできるよということなのだが、彼方への夢想ではない。今ここに現にある世界を、国家なきものとして一人一人捉え直せ、ということだ。そしてサビ。
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will live as one
いかにも夢想家チックに聞こえやすいところだが、ここにまた「みんな」という考えが出ていることに注目しよう。ここには全く他者論の萌す余地がない。楽天的と言ってしまえばそれまでだが、それをマジでやっているならすごいと思う。

今述べたようなものと違う考え、すなわち「今ここ」より「いつかどこか」を重視する考えからは、何が帰結するか。この曲を離れて少し一般的に述べれば、それは例えば目的論といった考えに帰着する。目的論は、彼方にゴールを設定し、そこへの足りてなさを動機にしてがんばる心性だ。これを裏返せば直ちに、足りなさそのものに打ちひしがれたがるあのニヒリズムになる。あるいは「天国に富を積め」タイプの思想(今の苦しみは、きっと来世で報われる…)や、それを裏返した地獄思想(「悪いことすると死んでから地獄へ行くぞ」と言って現世での行動を制限する…)などなどが帰結する。

これ以上の批判はニーチェに任せるとして、そうしたものと無縁の水準で書かれたのがイマジンなのではないかと私は考える。告白しておくと、私はジョン・レノン本人の思想についてまったくの無知である。ただ、歌詞を素直に読むとこう読めるということを言ったまでだ。

補助線を少し引いておくと、哲学者のスピノザがユダヤ社会から追放されたのは、その経験主義(今ここで喜びを増大させるという考え方)ゆえではないか、とドゥルーズが書いていた気がするが、この曲もまさにそういった水準で書かれているような気がする(スピノザにも他者論や目的論というものが全くない)。

ダニエル・L・エヴェレットの『ピダハン』という興味深い本がある。ブラジルの民族ピダハンには、右や左の概念も、数の概念もなく、過去や未来の考え方もない。端的に言えば彼らには「今ここ」以外ないので、宗教家のエヴェレットが一生懸命神を説いても、彼らには一向に響かない。挙げ句の果てに著者自身が無神論者になるというオチまでこの本にはついているのだが、このような「今ここ」重視の生き方を決して「想像力の欠如」として捉えないこと。そうではなくこれはひとつの捉え方であり、イマジンとは認識による今ここの変革のことなのではないかとこの曲は教えてくれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?