NOのある人はかっこいい

好みの主張が激しい人、とりわけ「これは嫌い」みたいなNOのある人は、きっと他人との軋轢が多いかもしれないが、少しかっこいいんじゃないか。
昔、名前は忘れたがとある建築家のインタビューを読んだ時に、彼は幼い頃から団地で育ち、その四角く等質的な空間に「住まわされている」と強く感じていたそうで、それが今の職業に就くきっかけになり…というような発言を読み、「仮に僕が同じような環境で育ったとして、僕はこんなふうな違和感を感じられるだろうか…」と思ってしまった。
「感じられる」というのがすでにかなりポジに見た時の言い方で、いやいやそんなの感じないに越したことはねーじゃん、と言われてしまうかもしれないが、そう言われると話が終わってしまうので、全てのクリエイティブ・エネルギーはこのような違和感をきっかけに始まるのではないか、と言っておこう。よく「気難しい職人」みたいなイメージがあるが、NOのある人はただ口だけでなく自分なりの代案を作るのである、きっと。
僕はここ数年「大根」ということについて思考をめぐらせてきた。「大根役者」という時の大根である。芝居が下手という意味で、揶揄の言葉として使われるが、それを最高にポジなものとして捉えたいのである。観客に違和感を抱かせる芝居イコール大根芝居なら、それはさらにイコール観客に思考のきっかけを与えてくれる芝居、ということでもあり、それってクリエイティブなことじゃないか!というわけである。そして、それなら「大根演技」の「演技」はもう取ってしまって、「大根ゴミ拾い」とか「大根靴履き」とか、日常の一挙手一投足を問題提起的なものとして生きる「大根人間」になろうじゃないか!と考えている。
まあ、他人から「変わった人」とよく言われる自分に対してある種の開き直り行為、開き直り思考でもあるのだが。
ところで、哲学において「批判」という行為はとても重要で、これは否定とかディスりとかいうことでは全くない。対象から創造的なものを汲み出してくる行為(とりわけその過程で、他の人が区別を見出さなかったところに線を引き、良いものとそうでないものを分けるという行為)を批判と呼ぶ。つまり対象のおもしろみを探す行為、肯定の行為が批判なのである。
冒頭に戻って、NOのある人というのは、きっと違和感をトリガーに思考を駆動させようとしているのだが、その発露が途中で止まってしまっている場合もあり、まだ批判まで行ききれてないのだ。NOという表明はそのあらわれだ。もっとうまくやれる批判者は、必ずNOのその先がある。「自分ならこうする」と。
胸に手を当てて(あるいはもっと良い言い方として、周りをよく観察して)、何かNOを感じるものはないか。ひとつもない、すべての現状(仕事、法律、制度、芸術、娯楽…)に大満足!という人は100%このブログなど読んでいないので、きっとあるはず、何かNOが。いや、NO以前の小さな違和感でも。まずはそれをよく探して、口でよく噛みよくこねてみる。そこから何か創造的なことを始めてみてはどうだろうか。

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