身もふたもないものども

小さな村で育った。その村に一組だけ、女の子の双子がいた。彼女たちはいつも、どこへ行くにもいっしょで、お互い顔を見つめ合わせては、にやつきながらヒソヒソ話をしていた。それがなんだかとても気味悪くて、あまり近寄らないようにしていた。
おおよそこういったことを話したあと、俺が何か質問しようかな、と思いかけた瞬間、おじいさんの目がついと細くなったので、とっさに口を閉ざすと、
(たっぷり間をとって)「……それがな、ある時から片方だけ背が伸び始めて、不揃いになってしまったのや」
寒の入りだと言うのに、話をするおじいさんの額には汗が浮かんでいた。
人の話を聴くのには、いろいろコツってものがあることを、この三年で学んだ。ここでは何も急ぐことなどないから、基本的には相槌を打っていればよい。もし俺が今の話の途中で何か質問をしていたら、双子の話は着地していなかったかもしれない。まあ、していてもいなくてもあまり変わらんのだけど。おじいさんはもごもごと口を動かしている。ダウンジャケットのポケットで温めておいた缶コーヒーを手渡すと、おじいさんは顔をくしゃっとさせた。プルタブがふたつ、勢いよくプシュッと開く。

俺はこの公園で、人の話を聴いている。

この公園にはいろんな人が出入りしていて、公園だから人が出入りするのは当たり前だが、そこで色んな「仕事」をする人たちもいる。俺のこの公園での「仕事」は、人の話を聴くことだ。マジックペンで「お話ききます 猿」と書いた段ボール板を、どこかで拾ってきた譜面台だか書見台だかに挟んで置いておく。あとはひたすら、誰かが話しかけてくるのを待つだけ。一応、お金を入れるとシンバルを叩くサルの貯金箱も置いてあるが、収入への期待は申し訳程度のものだ。「猿」という名前は貯金箱からきているのではない。むしろそっちが後付けで、はじめてこの公園に「腰をおろした」とき、「先輩」にあたる水島さんから名前を聞かれ、平野拓郎です、と応えると、
「うーん、じゃあヒラタクか猿で」と言われた。どう考えてもヒラタクはださい。猿? と聴くよりも前に、
「あれやろ、お前、産まれた時の猿みたいな顔を今でも引きずってるよな、いい意味でな、いい意味で」
水島さんの口癖は「いい意味で」だった。それを言えばなんでも許されると思っているのか、それとも単に無意識でそう言っているだけなのかはわからない。それ以来俺は猿になった。

双子の話から、いつの間にかおじいさんに「マトリョーシカ」を説明する(そして全然わかってもらえない)くだりになったころ、アテネが貯金箱にお金を入れにきた。公園の時計を見あげると、いつもどおりきっかり四時。アテネがお母さんからもらってきたであろう10円を入れると、サルがけたたましくシンバルを鳴らし、アテネはキャッキャと笑った。アテネは13歳だがいわゆる「普通の」13歳とはずいぶん違っていて(まあ俺もやけど)その歳の子にはめったに見れないまっすぐな目でこっちを凝視してくる。俺ははじめの頃はその視線にドギマギしてしまったものだが、おじいさんは、はじめて会う子どもを見て、一瞬でその子と同い年になったかのようにピッと眉をあげて笑った。こういうところを見ると、これだ、これが人生のあれなんや、と思う。死ぬほど大事思う。皆がどう思ってんのか知らんけど。アテネの名付け親は水島さんではなくライカだ。ライカは今日は来ていない。というか明日も明後日も来ない。ライカの名付け親は知らない。鳩がいっせいにバサバサと飛び立った。

この公園にはルールがひとつある、と水島さんに昔教わった。「ここでは、その人らしくあることがその人の価値を決めるんや」。俺は最初何を言っているのかほとんどわからなかった。禅問答みたいで。だがアテネを見ていると、アテネはとてもアテネらしく生きていて、そのことによって公園内での居場所を持っているのだ、ということがだんだんわかってきた。それと同じような評価をおそらく彼女は、公園の外では得られていないだろう。だからこそ、この公園がそういった人たちを守ってあげなければならないのだと今では思うようになった。ここに出入りし始めてから三ヶ月ほど経った頃、大雨だったからはっきりと覚えているが、水島さんに聞いてみた。
「この公園のルールって、水島さんが決めたんですか?」
「いや、この公園が決めたんや」
水島さんの言葉は、なんだか深いようで浅いようで、いつも煙に巻かれてしまう。

アテネと俺とおじいさんで、会話とも言えない会話が続く。
「そっすねー、おっちゃんの時代は9人兄弟とか当たり前ですもんねぇー」
「せや」
「そういやアテネは兄弟おるの?」
アテネ、渾身の笑顔からのリップロール。
おじいさんの笑い声。結局アテネに兄弟がいるかどうかはわからないけれど、アテネのリップロールは30秒ぐらい続いたし、公園ではいつもこんな感じで時間が進んでゆく。

大学2回生の時に、初めて精神科いうところに行った。それは俺が大学デビューにコケて、半年くらい口がきけなくなったからだった。変な絵をいっぱい見せられたり丸をつけるアンケートをやらされたりしたあげく、カタカナばっかりのようわからん病名(?)を言われた。曰く、人とのコミュニケーションが苦手です、ってそれ病気ちゃうやろ! というのも言葉には出せず、ただ下を向いていた。その頃の思い出は全部日記に書いて燃やした。今書いてる公園日誌はちがう。もっと地面すれすれで輝いてるものたちを見て聞いてとらえたくて、この公園に来た。そのきっかけは、まだ整理できてないから捨てた日記にも公園日誌にも書いていない。そこの空白だけは、皆さんで想像してください。

今まで一番の大金を置いていってくれたのは、信じられないことに(その人の話によると、だが)某有名企業の副社長だった。歳にして50前半くらい? スーツをバリッときめたおっさんが、「N原ふれあい公園」に足を踏み入れたのは、たしかにひとつのスペクタクルやった。だいぶいかつかったから、説教でも何でも聴いてやりますがな、と内心思いながら、たぶん引きつりまくってた営業スマイルで応じると、その男はいきなり膝からくずおれ、涙を流し始めた。そん時は俺しかいなかったから、慌てて駆け寄ると、
「車の中から毎日あなたのことを見てました。私は副社長をしていて、年収1億円以上あります。最初はあなたのことを蔑んだ目で見ていました。それは確かです。でも毎日見ているうちに、ふと気付いたんです。僕はあなたに聴かせられる話のひとつも持っていないって……。動悸がしました。あなたの存在はなにかの啓示かとも思いました。それからこの公園の前を通るたびに、話しかけようか、いや無視しようかとずっと迷っていました。でも勇気を出して今日ここへ来てみました、でも何の話をすればいいか、まだわかりません」
俺はすっと息を吸って、
「おじさん、えらい話し上手ですやん、さすが副社長? まあ俺働いたことないんでわかんないですけど。僕の前来て1時間黙ってる人とか平気でいますからね。そのわりにはおじさん饒舌やわー。ほな年収の半分、置いてってもらいましょか、ウヒ」
結局そのおじさんは、話すことがないと思っていただけで、そのことを話せばよいのだ。その人は10万置いていった(5000万やあらへんのかい!)。その後彼がどうなったのかはわからない。この公園は来るもの拒まず、去る者を追わず。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?