見出し画像

カソウスキからしか始められない

津村記久子さんの『カソウスキの行方』という本を読んだ。

主人公は、職場の不倫カップルの軽いプレイに巻き込まれ、東京本社から郊外の倉庫に左遷されたイリエ、28歳、独身、恋人なし。年下上司の元での倉庫の仕事は居た堪れないし、つまらない。家族は疎遠で不和な関係だし、心を許せる友達は結婚間際で幸せそう。そんな彼女が日々にきらめきを求めて始めたのが、同じ倉庫勤務の職員 森川に恋に落ちた設定で生活することだった。

「恋愛はすごいなあおい」
そう口に出して言ってみるが、棒読みだった。気を取り直して、あやかりてー、とごろんと寝返りを打ってみたが、どうしてもやる気のある人の口調にならない。

わかるなぁ。
津村さんの作品に出てくる主人公は自分に重なることが多いけれど、イリエの自己分析が過ぎて余計にまどろっこしく不器用になってしまう言動にはうんうん頷きたくなる。

自分が苦しいとき、こんなときに好きな人でもいたら恋の力にあやかって頑張れるのではないかとか何とか思ってしまうのだ。「この人を仮に好きになったとしたらどうかしら」から始まって、「もしかしたら好きかもしれないよ」と自分に暗示をかけてしまうのだ。その人に会えると思えば行きたくない場所にも前向きに行く動機ができるし、身なりをきちんとする元気がなくても綺麗にしなければいけなくなるし、きっと健気に頑張る人だと思われたいはずだから気力のないときでも自分を高める必要ができる。けれども本当に恋に落ちたわけではないというのが前提にあるから、アクションを起こすこともなく、いつの間にかそんなカソウスキなんて忘れて普通に生きている。だから「もしかしたら好きかもしれないよ」から「そうだ、わたしはこの人が好きなんだ」に全然ならない。自分でも困ったなぁ、愛のない人間なのかなぁと悩ましく思っているのだけれど、どうしようもない。

そんなことを言いながらも、こんなわたしも、多分本当に恋に落ちたことがあった。多分というのは、上記のようにしか恋心を抱けないでいたので、それも全くの純粋な経緯だったのかどうかわからないけれど、何はともあれ「そうだ、わたしはこの人が好きなんだ」まで到達したのだ。

村上春樹にかぶれているわけではないけれど、彼はわたしにとって100パーセントの男の子だった。何がどうとは説明できないけれど、とにかく素敵な人だった。しかし「そうだ、わたしはこの人が好きなんだ」まで到達したときにはもう会わない関係で、それっきり記憶の中で短編小説みたいに完結している。

ここで自分に対して思うのは、そもそも会わなくなるとわかっていたからこそ「そうだ、わたしはこの人が好きなんだ」まで至れたのではないか、ということだ。綺麗で淡い記憶のまま消えていく、というドラマチックさまで含めて彼は100パーセントの男の子だったわけで、消えゆく人ではなかった場合には「もしかしたら好きかもしれないよ」の後は続かない存在なのかもしれない。現にその2年後、彼に「好き」と言える機会が巡ってきても今後お付き合いしたいという野望は芽生えず、わたしが「好き」と言ったことに対する彼の反応の完璧さに「やっぱり100パーセントだ」と感動してしまう。そして淡い記憶として、心にそっと仕舞い込むのだ。

こんな風に100パーセントの人とは現実で折り合っていけないし、結局のところ色々理由を求めてカソウスキからしか始められない人なのかもしれない。

ESを考えていたら思考が脱線してしまったので思わずメモ。

こういう人、結構いると思うんだけどなー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?