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スクールカーストは大人になっても続く①

スクールカースト(または学校カースト)とは、学校において自然発生する生徒間の固定的な序列、また、序列の近い生徒らが小集団を形成し、学校社会が階層化しているという仮説である。上下関係が固定化することから、ハラスメントやいじめの原因になっているとの見解がある。スクールカーストの呼称は、学校における生徒間の序列を、インドの固定的・階級的な身分制度であるカーストになぞらえた和製英語である。
Wikipediaより

年齢で姿を変えるスクールカースト



昔何かの本で読んだ事があるのだが、小学校では個人のキャラクターや性格でスクールカーストが形成され、中学校・高校ではグループごとの強さで形成され、大学になると自然消滅するものだという。
現在36歳、社会人14年目ではあるが、ふとした時にスクールカーストを感じる瞬間がある。
大人になっても自然消滅するものではないのだ。

トミーさんを思い起こされる図



小学校4年生のおとうふ

私が小学生高学年の頃は、まさに「いじめ」という言葉が浸透し始めた時代だった。
私の通う学校では4年生になったら部活とは別にクラブに入らなくてはいけなく、私はバトントワリングクラブに入った。
今から思い返すと、なぜ手芸クラブや図書クラブに入らなかったのかと不思議に思う。
私には3歳上の姉がおり、バトントワリングクラブで活躍していた。
勉強以外、自分は何が得意なのか分からない私は当時人気者だった姉のするファッションや入るクラブを真似していた。
一年生から習字とピアノも姉の真似をして、好きでもないのに通っていた。

クラブでは常に「大豆(私の名字)さんの妹」と呼ばれていた。
5年・6年の先輩からは「お姉さんに渡して」と手紙を預かる事もしばしばあった。
ある日その手紙を偶然読んでしまった事があり、「大豆さんの妹、私はちょっと苦手。」と書かれていたのがショックだった。

9月の運動会季節になると、バトントワリングクラブはブラスバンド部と一緒に校庭で出し物をする。
10月には地元のお祭りで各学校ごとに出演しパレードを行進する。
秋だけは部活の如く練習をする毎日だった。

とある9月の雨の日、放課後私のバトンが無くなった。
練習に遅刻しながら教室を血眼になって探すと、傘立ての下にあった。
いつもはランドセル置き場に置いているバトンが傘立ての下に入り込むなんて有り得ない事なのだが、その時は偶然だと本気で信じていた。

また別の日、私の水筒が無くなった。
クラブの練習が終わり帰宅する際にない事に気付いた。
最後に見たのは校庭だったので、靴箱や水飲み場付近を探したが見付からず、校庭に面した理科実験室の水槽に沈められていた。
流石に風に飛ばされて水槽に入ったとは思えなかった。

クラブでのいじめは後にクラスでのいじめに繋がり、私はある事に気付いた。
同じクラスで同じクラブにいた「堀江さん」が全ての首謀者だったのだ。
私のバトンや水筒を隠したのも彼女であり、クラスではある時急に私だけ無視される様になった。
私が会話に加わり話そうとすると、堀江さんを中心とした女の子達が「臭い」と言って鼻をつまむようになった。
私はそれが「いじめ」だとは気付かず、本当に臭いのだと思って歯磨きをしょっちゅうする子供となった。
なぜ「いじめ」だと気付かなかったのかというと、その「無視をする」行為は順番に回されるので2週間もすると別の子が対象になったのだ。
私はそこには常に堀江さんがいたので、それに参加する気にもならずクラブでも彼女と話さない様になった。

小学校5年生のおとうふ

小学5年生の頃「みにくいあひるの子」というドラマをテレビで観て衝撃を受けた。
そのドラマの中で「いじめ」により男の子が自殺をしてしまった。
そして自分が堀江さんにされていた仕打ちは「いじめ」である事に気付いた。
けれど運の良い事に、堀江さんとは別のクラスになった。
5年生になるとクラブに加えて委員会に入らなくてはならなかった。
私は初めて姉の真似をせずに自分のやりたい委員会に入った。
「放送委員会」だ。
昼休みはクラスで給食を食べずに放送室で食べながら、学校が用意した歌謡曲のカセットテープをDJさながら流したり、絵本の朗読をしながら過ごすのだ。
聞こえはカッコいいが、「今の曲は『小さい秋見付けた』でした。」と、ドヤ顔で言うのは今から考えると大変ダサくて可愛い委員会である。
朝の時間、昼の時間、掃除の時間、帰りの時間に決められた曲を流しコメントを入れる。
特に帰りの時間に「ネバーエンディングストーリー」を流し「今日も元気に学校生活を送る事が出来ましたか?明日も元気に登校しましょう。」と全校生徒に偉そうにコメントする役割が好きだった。
バトンクラブも続けながら、私はその頃塾通いが始まった。
小学校1年生の時から小さなアパートの寺子屋の様な塾に通っていたが、中学受験を意識した両親が「日能研」という大手の塾に通うべきだと言い出した。
大して上達しなかった習字とピアノを辞め、私は学校が終わるとすぐに帰宅し週に4日塾に通い、日曜日は公開テストを受ける毎日だった。

クラスでのいじめはなくなったが、その頃からスクールカーストがうっすら見えていた。
上位にいるの子は人気者や面白い子。
下位にいる子は忘れ物が多かったり、靴下を履かずに足が臭い子だった。
けれどこれは今から考えると気の毒な話で、下位にいる子は両親が共働きだったり片親で経済的に余裕がない子だった様な気がする。
4年生の頃カースト下位にいた私はどこに属したかと考えたが、上位にいる様に見えて圏外だったのかもしれない。
担任の先生が差別を無くそうと、敢えて中学受験をする私を特別扱いしなかったのが逆に目立ってしまい、クラスで孤立していた。
部活や仲良しグループには属さず、昼休みは放送室で過ごし学校を終えると掃除を済ませてすぐに帰宅する。
「小学校の頃が1番楽しかった」と言っている人と全く共感が出来なかった。

小学校6年生のおとうふ

6年生はクラス替えがないのでスクールカーストは大きく変わらなかった。
相変わらず私は圏外にいて、学校でのカーストよりも塾でのカーストに悩まされていた。
塾でのカーストの基準は勿論、成績でしかなかった。
上から「栄冠クラス」「特1クラス」「特2クラス」とあり(現在は違う呼び名らしい)、1ヶ月に1回成績に応じてクラスと席順が変わる。
クラスの中で最も成績の良い生徒は最前列の中央席、最も成績の悪い生徒は最後方の端の席に座らされる。
私は特1クラスの中盤から後方の席ににいる事が平均だが、成績が落ちると特2クラスの前方席に座る事もあった。
クラスが下がってしまうと両親にがっかりされてしまうが、特2クラスは穏やかな雰囲気のクラスなので私は居心地が良かった。
友達が頭が良かったので、休み時間に栄冠クラスにたまに遊びに行ったが一番静かなクラスだった。
眼鏡を掛けてる子が多く、休み時間も勉強をしている子が多かった。
私が属する特1クラスの男の子達が一番騒がしかった。
机の上に座りAV男優の話をしたり、プロレスの様な遊びをしていた。
それでも6年の1月の受験シーズンになると皆んな静かに勉強する様になった。
成績だけでカーストが出来あがるこの世界を、私は嫌いではなかった。

小学校の卒業式はあっさりしたものだった。
私を含め中学受験をした子は5人くらいしかおらず、殆どの生徒は小学校の向かいにある市立の中学校に行く事になっていた。
そこで私は、やっぱりスクールカーストの圏外にいた事を確信した。



つづく

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