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無償という偽善

無償という一見疑い無き善意。
その全てを否定するのは極端でナンセンスだが…

それで生産性が上がるのか。
それは持続可能で成長するものか。
一時のエゴで終わらないか。
次の担い手の負担にならないか。
有償で活動のサイクルを作ったり、
モチベーションやクオリティの向上にする方法はなかったのか。  

時には振り返ることは大切だと思う。

無償こそ善意としてパフォーマンスやクオリティを上げていくには多くの場合限界がある。
むしろ成長を止めることにも繋がりかねらない。
現在でリスクを積み、未来への投資もしないとなれば、
現在の善意は未来にとって全く優しくない。  

本当に高い志や損得勘定を越えた価値観や美学があるのならば、
その善意が未来に搾取の対象にならないようにすることこそ優しさと言えはしないか。

例えば善意から納得の上で無償でボランティアスタッフをやったとする。
そして充実感や達成感を得られたとして…
するとスタッフとして受け入れた側は味をしめて…

「これはボランティアがやってくれる」

「ボランティアなら出費をなくせる。」 

「ボランティアはいい経験になる!」  

のように、
無料での人員獲得に味をしめて
ついには美談のような建前で
人の時間を無料で搾取するようになる。
これは悪意とも取れる。

時間を浪費し、無償ボランティアの結果、
その人本人は時間もお金も持てず、
努力も投資もできないことに…
そんな未来を誰が望むというのか。

無償、無料、ボランティア、手弁当…
それは美談でのみ語られるべきものではない。

無論、時間もお金もあり、無償ボランティアが楽しくって仕方ない趣味の方や奉仕の精神の持主にとっては、
何ら問題では無いことなので、
その世界を全てを完全否定はするべではないとは思う。

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