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死ぬ事と見つけたりとは生きる事と同意義

葉隠れの一節にある「武士道とは死ぬ事と見つけたり」そのまま受け止めれば、「その時がくれば潔く散りなさい」と読めるかもしれまさん。とはいえ僕は今まで自分の命が危険な状況にあることを経験した事はありません。特に平和な世の中では当たり前に享受している有難いものなのかもしれません。平時には感じにくい「死」を意識するのはとても難しいことですが、身近な人間の生死を通じて感じられる事があります。

ちなみに、僕はつい最近、娘が産まれてきてくれた時に「生」をはっきりと感じました。はじまりを感じたということは、いつかは終わりがやってくることも同時に考えました。その時に、何を残したいかと言えば、究極は命です。繋いできた命を次世代に託したいのです。そこが全てに思います。

だから前述の言葉は、死ぬ覚悟を持った上で、「生きよ」と言いたかったのではと感じます。

「生きて大業の見込みあれば、いつでも行くべし。死して不朽の見込みあれば、いつでも死すべき。」吉田松陰さんのこの言葉も、時代背景によって解釈は違いますが、僕は今は生きよと言っているように思います。僕が死んでしまうと守れない者があります。正しさだけでは生きられないことは世にはあります。しかしそれは上っ面の話であって、本質は誰かの為に生きる事にあるのです。

繋げたい大切なものの為に、僕らはやっているのです。

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