見出し画像

~争いのない世の中を願って~平和和讃とともに

本日はお参りいただき誠にありがとうございました。
連日暑い日が続いています。1951年の統計開始以降初の6月の梅雨明けだそうでございます。異常気象が異常ではないのではと感じてしまいますが、そんな中、こうして法船寺・弘願院のお盆の法要にお参りいただけましたこと、誠に尊いことでございます。法要でとなえたお念仏の功徳を各家の先立たれた諸精霊にふり向ける(回向)させていただきました。

さて、今日はどのようなお話をしようかと数日前から考えておりましたが、ある日の夜にニュースをみておりますと、これだ!というニュースと出合いました。

6月23日

皆さまはこの日が何の日かご存知でしょうか?

6月23日「沖縄慰霊の日」
沖縄戦の終結の日を、沖縄戦の戦没者の霊を慰め平和を祈る日「慰霊の日」として県の条例で記念日に定めています。

沖縄戦とは太平洋戦争末期の1945年、米軍を中心とする連合軍と、日本軍との間で行われた戦いのことです。連合軍による沖縄侵攻の目的は、日本本土への進攻と攻略のための航空基地確保と補給基地の確保であったと言われています。米軍は1,500隻近い艦船と、約54万人の兵員をもって沖縄本島に上陸を開始し、沖縄の海はたくさんのアメリカ軍の艦船で埋め尽くされていたといいます。戦中に使用された銃弾・砲弾の数は、約20万トンともいわれ、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃は「鉄の暴風」と表現されるほどでした。米軍の慶良間諸島上陸により始まった激しい地上戦により、20万人を超える大切な命が失われています。一般の犠牲者は約9万4千人といわれ、地上戦により多くの一般市民が命を落としたことになります。

小学二年生の言葉

23日に行われた沖縄全戦没者追悼式の中で、沖縄市立山内小学校2年の徳元穂菜(ほのな)さんが「平和の詩」を朗読されました。
タイトルは「こわいをしって、へいわがわかった」

こわいをしって、へいわがわかった
びじゅつかんへお出かけ おじいちゃんやおばあちゃんも いっしょに みんなでお出かけ うれしいな

こわくてかなしい絵だった たくさんの人がしんでいた 小さな赤ちゃんや、おかあさん
風ぐるまや チョウチョの絵もあったけど とてもかなしい絵だった

おかあさんが、七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ たくさんの人たちがしんでいて ガイコツもあった

わたしとおなじ年の子どもが かなしそうに見ている
こわいよ かなしいよ かわいそうだよ

せんそうのはんたいはなに?

へいわ? へいわってなに?

きゅうにこわくなって おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな

おねえちゃんとけんかした おかあさんは、二人の話を聞いてくれた そして仲なおり
これがへいわなのかな

せんそうがこわいから へいわをつかみたい 
ずっとポケットにいれてもっておく

ぜったいおとさないように なくさないように 
わすれないように

こわいをしって、へいわがわかった
沖縄市立山内小学校2年 徳元 穂菜(ほのな)さん
『平和の詩 「こわいをしって、へいわがわかった」』

この詩を聞きながら自分に問いかけてみました。
「平和ってなんだろう?」

家でゆっくりくつろげること
晩御飯を食べている時に子どもが無邪気にブロックで遊んでいること
家族がたわいもない話でおしゃべりできること

平和の概念は人それぞれ違う事でしょう。それぞれがが正解だと思います。
皆さまにとって「平和」とはなんでしょうか?

浄土宗を開かれた法然上人。その法然上人ご在世も戦乱相次ぐ時代でした。
NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」が話題になっていますが、法然上人がご在世の時代はあのドラマとまるまる重なっているのです。

法然上人(勢至丸)が仏門に入った理由

法然上人は長承2年(1133)美作国(現在の岡山県)に父 漆間時国、母 秦氏の間に生まれました。
幼名は勢至丸。
勢至丸9歳の時、父時国公は宿敵の夜襲に遭い、それが原因となって命を落としてしまいます。
 
法然上人ご在世の時代は平安末期~鎌倉初期。源氏や平氏の争いなど、生きるか死ぬか、ドラマ「半沢直樹」ではないですが、やるかやられるか、やられたらやり返す(倍返し)の時代でありました。
 
そんな時代ではあったものの、父である漆間時国の遺言が大きな意味を持ちます。
「恨みに報ゆることなく僧となり万民を救う道を求めよ」
怨みの連鎖をどうか断ち切ってほしい、敵討ちよりも私の菩提を弔い、僧侶となって多くの人を救ってほしい。

これが父の遺言でありました。

幼き勢至丸はこの言葉を忘れることなく、仏教を学ぶために比叡山に登り、仏門に入りました。
そして承安5年(1175)43歳の春、専ら念仏を申すことで「いつでも、どこでも、誰でも救われる教え」を明らかにされた。

幼き勢至丸は父との約束を果たすため、そして誰もが救われる道を追い求めたのであります。

後の法然上人の弟子

法然上人のお弟子さんは多くの方がおられますが、中には不思議なご縁の巡りあわせで一緒になった方がおられます。二人を紹介します。

◆源智/勢観房源智(1183 - 1238)
平師盛(もろもり)の子。(平清盛のひ孫)
13歳の時に法然上人のもとへ身を寄せる。法然上人の晩年に常随した門弟。
建暦2年(1212)正月23日、法然上人御入滅の2日前に残された『一枚起請文』は源智の要請によって書かれた。

◆蓮生法師/熊谷次郎直実(1141 - 1208)
武蔵国(現埼玉県)の出身の武将。源頼朝公の御家人となり、源平の合戦で活躍。一ノ谷の戦いでは、平家の若武者、平敦盛を打ち取るが、息子ほどの年齢の若者の命を奪ったことによって世の無常観を感じ、心に深い傷を負う。その後、法然上人に弟子入りし蓮生(れんせい)と名乗る。

源智は平氏の子孫、蓮生法師(熊谷次郎直実)は源氏方のついた者。争いをしていた敵仇同士が同じ場にいるなんて当時では考えられないことでしょう。しかし、法然上人の元では源氏も平氏も関係ない。身分や生まれに関係なく、お念仏のみ教えのもとで師弟関係となったわけであります。

南無阿弥陀仏のお念仏のみ教え

法然上人が命を懸けて伝えられたお念仏のみ教えとはどのようなものなのでしょうか?

南無阿弥陀仏のお念仏は、【南無 阿弥陀仏】 阿弥陀さまどうかお願いします。阿弥陀さまあなたにお任せします。という意味です。

阿弥陀仏という仏さまは身分・性別・人種・国籍、関係なくどなたのことも等しく優しい眼差しで見守っておられます。
浄土宗が大切にする三本柱として、
①目指すのは極楽浄土、
②信じすがっていくのは阿弥陀仏、
③実践すべきは阿弥陀仏の本願のお念仏(称名念仏)。

お念仏のみ教えのもと、仏法僧の三宝に帰依する生活。言い換えるならば、我々が生きるこの世を明るく・正しく・仲良く生活していくことでありましょう。自分の身の回りから、小さなことから、できることからはじめてみましょう。

吉水流詠唱「平和和讃」

ここからは浄土宗のお歌を通じて今一度平和の在り方を考えてみます。
浄土宗には「平和和讃」というお歌があります。

吉水流詠唱「平和和讃」


1
祈ります 祈ります
世界平和を 祈ります
飢餓(うえ)と戦争(いくさ) という言葉
忘れさせてと 祈ります
法然上人 共生(ともいき)が
広まりたまえと 祈ります
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
 
2
願います 願います
全人類(ひと)の幸せ 願います
すべての命 平等に
輝きたまえと 願います
法然上人 共生(ともいき)の
教えのままに 願います
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
 
3
求めます 求めます
花の浄土を求めます
怨み憎しみ 悲しみが
花にかわれと 求めます
法然上人 共生(ともいき)の
同じ蓮(はちす)を 求めます
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

お歌を通じて

もちろんこの私も戦争を経験したわけではありません。ですが、自分が今まで家族や大人に聞いてきたこと、戦争はいけないことだ、してはならないという意思を自分なりに語り部となって次の時代に「平和」を繋いでいきたいと思います。

これは信仰も同じです。お家ごとの歴史やご先祖様のことをどうか同じように次の世代へ繋いでいっていただきたい。
金沢はもうすぐお盆であります。お墓参り、お寺参りをきっかけに今まで脈々と繋がってきた「いのち」について家族で考える。そのような期間にしていただきたいと思います。

徳元さんの言葉を振り返ります。
「こわいをしって、へいわがわかった」

私がこの席で言い換えるならば、
「自分の命と向き合い、生かされている尊さを噛みしめる」今ある命を大切に、この命への感謝の思いと先立たれた有縁の方に対して南無阿弥陀仏のお念仏をもってご供養いたしましょう。
先立たれた方も極楽から「ありがとう」と思いを寄せてくださいます。

本日はお参りいただき誠にありがとうございました。

令声不絶具足十念称 同称十念

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?