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うばう わけあう

先日子どもとブロックで遊んでいました。

30ピースほどのブロックで子どもはアンパンマンのキャラクターの「だだんだん」を。私は飛行機を作っていました。

お互いブロックを使うので数が足りず、子どもはお好みのキャラクターが完成しません。そうすると子どもは何も言わず私の作りかけの飛行機の一部を崩しにかかりました。 

「父ちゃんまだ作ってる途中やで。やめてや。」

子どもはお構いなしに私のブロックを奪い取ろうとしてきます。そんな子どもに、

「〇〇(子どもの名前)が作ってる途中にブロックを取られたらどんな気持ちになる?貸して?とか、使っていい?って聞かないと相手は嫌な気持ちになるよ。相手も同じブロックを使ってるんだから。お互いに取り合ったらお互い嫌な気持ちにならんか?」

と子どもに伝えてみました。すると子どもは、

「ごめん。〇〇(子どもの名前)だだんだん作りたいからブロックちょっと貸して。」

素直に自分の気持ちを伝えてきました。

「わかったよ。貸してあげる。でももし父ちゃんが貸してほしい時は貸してね。」

そう伝えると、

「わかった。父ちゃんに貸してあげる。」

対話を通じてお互いが嫌な気になることなく、ブロック遊びが続きました。

我々は自分が人生の主人公として今を生きています。ですが自分の意見ばかりが通用するわけにはいきません。そこで一方的に暴力や権力で相手をねじ伏せると遺恨が生じ、相手にはずっと嫌な思いが残り続けます。

子どもとのそんなやり取りをしながら、相田みつをさんの詩を思い出しました。

うばい合えば足らぬ
わけ合えばあまる
うばい合えばあらそい
わけ合えばやすらぎ

うばい合えばにくしみ
わけ合えばよろこび
うばい合えば不満
わけ合えば感謝

うばい合えば戦争
わけ合えば平和
うばい合えば地獄
わけ合えば極楽
相田みつを『にんげんだもの』

この詩の1番最後に地獄と極楽が出てきます。
こんな例え話があります。

昔々、ある人が閻魔大王にお願いし、地獄と極楽の見学に行きました。

まずは地獄の方へ。お坊さまから事前に地獄の怖い話を聞いておりましたので、恐る恐る地獄の玄関の窓から覗いてみると、ちょうど食事の時間でした。

さぞひどいものを食べているのだろうと思ったのですが、なんとテーブルには沢山のご馳走が並んでいるではありませんか。でも、よく見ると地獄の人々はそのご馳走を前にして、みんなガリガリに痩せています。

それもそのはず。片方の手は椅子に縛られていて、もう片方の手に約1メートルもある長い箸がひもで結びつけられているのです。

地獄の人々は、ご馳走を食べようと必死に箸をつかいますが、箸が長すぎてご馳走を口に運ぶことができず、食べられません。また、前後左右にいる人が我先にと食べ物をとろうとするので、長い箸を上手に使えません。しまいにはその箸で相手を攻撃し始めるものも。相手も必死で応戦してくるのでテーブルの周りには食べ物が散乱し、怒号が飛び交う・・・まさに「地獄絵」の状態でありました、、、


次に、極楽の方の玄関をのぞいてみました。
極楽もちょうど食事の時間。よく見ると極楽も地獄と全く同じで、テーブルには食べきれないご馳走が盛られていました。極楽の人々も左手を椅子に縛り付けられています。そして右手も地獄で見たのと同じ約1メートルの長い箸をもっています。

こんな長い箸じゃ上手に食べれないから、極楽の人もお腹をすかせて悲鳴をあげているかと思いきや、地獄と違うのは食卓に座っている人たちがみんなニコニコと楽しそうにテーブルのご馳走を食べているのです。

よく様子を見てみると、極楽の人たちはご馳走を箸ではさんで自分が食べるのではなく、周りにいる人たちの口に入れているのです。そうして極楽の人たちはおいしいご馳走を満足するまで食べられるのでした。

そんな様子を見た人間は地獄には行きたくない!なんとしてでも極楽に行きたい!!と強く誓われたそうであります。

このおはなしは地獄と極楽という後生のことだけでなく、今のこの現代でも同じことではないでしょうか。

現に今ロシアとウクライナで大変痛ましい戦争が起こっています。世界各地でも紛争が続いている地域もあります。我々が住む日本でも大小様々な争いはあることでしょう。

ただ自分の利益だけを求め、相手への思いやりの心が無い人のことを「我利我利亡者」と言います。

地球上に住む全員が自分のことばかり考えて行動したならば、我々が住むこの世界はどうなることでしょう?
まさに「地獄」のような世界。そんな世界を作ってしまうのは我々人間であり、この私自身です。

仏教を開かれたお釈迦さまはお生まれになった時に
「天上天下唯我独尊(この世界において、私たち一人ひとりが尊い存在である)」と高らかに宣言されました。

自分のことと同じほど相手のことを思い、互いに助け合い、支え合う。そんな「極楽」のような世界を作るのも我々人間であり、この私自身です。

我々も完璧な存在ではありません。時には間違いを犯してしまうこともあるでしょう。
そんな時に自己を省み、自らの杖となり、進むべき道を指し示すものが仏教の教えです。

「うばい合う」世の中より、
「わけ合う」世の中の方が私たちの心が幸せになるのではないでしょうか。

おもちゃのブロックも長い箸もどのようにして使うか、それは我々自身に委ねられます。使い方を間違えれば互いに歪みあう原因となり、結果「地獄」のような世界になってしまう。仏さまの教えをもとに正しく使えば「極楽」のような世界になる。

心豊かに穏やかに、互いに助け合い支え合う「ともいき」の世になることを祈るとともに、この私もそんな世の中を作る一員として仏教の教えを基に、明るく正しく仲良く生活してまいりたいものです。

最後に相田みつをさんの別の詩と浄土宗で大切にしているお経の一節をご紹介します。

セトモノとセトモノとぶつかりっこすると
すぐこわれちゃう
どっちかがやわらかければだいじょうぶ
やわらかいこころを持ちましょう
相田みつを『にんげんだもの』
国豊民安 兵戈無用 
崇徳興仁 務修礼譲
『無量寿経』巻下

国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、努めて礼儀と謙譲の道を修めます。

互いに思い合える世の中でありますように。
合掌 南無阿弥陀仏

2月に作成した弘願院の寺報『安養〜弘願院だより〜』も併せてご覧ください。

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