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【ともいき護美ひろい】と周利槃特

 本日から8月に入りました。暑さの本番はこれからですのでどうか引き続き、こまめな水分補給をお願いします。

 テレビを付けても明るいニュースが少なく感じてしまいます。テレビの中でも批判合戦、そしてそのテレビを見る我々のお茶の間でも自分がコメンテーターになったかのようにさらに批判が続く、、、そんな我が家を省みる今日この頃であります。

 そんな中、730日に3年ぶりとなる北國花火2022金沢大会が開かれました。夏の風物詩でもある花火を見ると夏だな〜と改めて実感します。花火は咲いてすぐに散ってしまう。そんな儚さに我々人間は心が動かされます。

 花火大会の翌日ということと、とてもやる気になった子がいたので町内〜犀川大橋までの【護美ひろい】を行いました。

 【護美ひろい】とは私が3年前から週2回欠かさず続けている清掃活動のことです。私が現在護らせていただいている弘願院の目の前には某観光寺院があり、そこから、にし茶屋街に抜けるルートの途中に弘願院があります。人が沢山通られるせいか、ゴミのポイ捨てがひどい状況でした。当初はお寺の山門前だけ掃除していたのですが、せっかくならばと少しずつ範囲が広がり、今は町内~最寄りの小学校までを40分ほどかけて挨拶をしながら「美を護る」ということで【護美ひろい】を行っています。

 花火を見る人も多かった近くの犀川大橋の周辺は思っていた以上に綺麗で、自分達よりも前にどなたかが美を護ってくださったのかもしれません。

 護美ひろいは志1つで誰でもできることです。自分が住む街を汚すのも綺麗にするのも紙一重。

 仏教で掃除は「作務」という修行の一つです。ブッダの弟子に周利槃特(しゅりはんどく)というお坊さんがおられました。その方は自分の名前もお経の1つを覚えることもできない方でした。そんな彼にブッダは1本のほうきを渡し、とにかく掃除を続けなさいと仰いました。周利槃特は「ちりを払い、あかを除かん」と唱えながらひたすら掃除を続けました。

 掃除を続ける生活をつづけた周利槃特はお釈迦様に「 どうでしょうか?きれいになったでしょうか?」と尋ねます。しかしお釈迦様は「 まだまだ」と返すのみ。どれだけ隅から隅まできれいにしてもまだ駄目だといわれる。周利槃特はそれでも黙々と掃除を続けた。
 ある時、子どもたちが遊んでいて、せっかくきれいに掃除をした所を汚してしまいました。周利槃特は思わずほうきを振り上げ「こりゃ!どうして汚すのだ」と怒鳴ってしまいました。その瞬間、彼は本当に汚れている所に気がつきます。ちりやあかとは自分の執着の心のことだったと気づいたのです。
 それ以来、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、悟りを開いたと言われます。

 余談ですが周利般特は『方丈記』や浄土宗が大切にしている『仏説阿弥陀経』にも登場し、天才バカボンのレレレのおじさんのモデルにもなったと言われています。

 掃除は表面的な汚れを取るだけでなく、自らの内面、心の汚れをも除き、様々な「気づき」が得られます。普段生活する場所、見慣れた場所であっても、掃除をすることで新たな発見と気づきがあるのです。

 掃除は一度行えばそれでいいというものではありません。同じ場所でも何度も何度も掃除をします。

 それは我々の心も同じ。いつのまにか気づかないうちに心のちりやあかも溜まってしまうのです。

 仏教は仏さまの教えであり、仏に成る教えでもあります。方法は様々でありますが、何度心の中をピカピカにしても、すぐにちりやあかが溜まってしまう。そんな私であります。

(浄土宗では南無阿弥陀仏とお念仏をとなえることに滅罪の功徳があり、お念仏となえる者を阿弥陀仏という仏さまの慈悲の光が照らし、煩悩を滅し、善心が生じます。よって、「阿弥陀さま、よろしくね。阿弥陀さま頼むね。」という思いでこの口からお念仏をとなえることを大事にします。)

 そんな自分の内面と向き合い、自分が確かにできることは何か?

 浄土宗を開かれた法然上人という方は自らの愚かさを知る「還愚」の姿勢を貫かれました。

自分自身を見つめ、この私にできることは何か?

 小さなことですが、できることからそれぞれの場所それぞれの立場で実践してみませんか?

 コロナ第7波、異常気象、各地の紛争、なかなか我々の心も穏やかになりませんが、そんな時だからこそ自分のできる範囲で世のため人のためにその一歩を踏み出してみましょう。

弘願院 住職
法船寺 副住職
森岡 達圭 拝

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