資本家を目指す理由
資本家を目指す理由
このブログのタイトルもそうしているように、私はこの資本主義というルールで動く社会をゲームに見立て、その攻略を目指しています。
別の言葉で表現すれば、資本主義における支配者たる資本家を目指しているということになります。
なぜ資本家を目指すのか。それは以前にも書いたことがあったように思いますが、主に2つの理由からです。
まず確固たる生きる意味を持たない私にとって、何か目標があった方が日々の暮らしに張り合いがでるから、というのが一つ。
そして資本主義のルールの下では搾取される運命にある労働者という立場から脱却したい、という理由もあります(※1)。
しかし普段自分でもあまり意識することはありませんが、それとはまた別の理由があるような気もしています。
持てる者と持たざる者の間にある理不尽なまでの格差
民主主義的な(政治の)介入のない純粋な資本主義社会では、資本を持つ者と持たざる者の格差はとどまるところを知らず、開いていく一方です。
持てる者はただ資本を有しているというだけの理由でますます肥大化していきます。
一方で持たざる者は、明日の命をつなぐのにも精一杯で、日々ボロボロになるまで働き、使い潰されていきます。
資本家と奴隷。現実はここまで露骨ではないかもしれませんが、資本主義の基本的な構図とはまさにこういうものだと私は思っています。
私は世の中の理不尽や不条理というものに対してなかなか割り切れないところがあります。そういうものだと受け流すしかないと頭ではわかっていても、どうにも納得がいかない。そういう性分のようです。
長くこの国を支配してきた絶対的な身分制度に比べれば、現代はどれほど平等な世の中なのだろうか、とは思います。
しかし偶然性の強い資本の多寡だけで生き方が決まる、この資本主義という社会にも少なからずそれを感じずにはいられません。
私とて、決して今の社会の仕組みを是としているわけではありません。
覆してやりたい。心の内にはそんな思いがあるのかもしれません。
持てる者の言葉には説得力が宿る
仏教の祖であるブッダ。彼が王族であったことは広く知られるところでしょう。
釈迦族の王子であった彼は生まれた時から何不自由のない暮らしをしていたのかもしれません。少なくとも物質的(経済的)には満たされていたことでしょう。
そのような境遇の一切を捨て、出家という茨の道を選んだブッダ。そんな彼が説く教えだからこそ、多くの人が耳を傾けたという側面は少なからずあるのではないでしょうか。
仮にブッダが貧民の出、持たざる者であったならば、はたして彼の教えはここまで広まったでしょうか。
すっぱい葡萄のように決して手に入れられない物を価値がないと断じて自分を慰める、愚かな負け犬としか人々の目には映らなかったかもしれません。
ある意味、今の社会の是非について論じる資格があるのは資本家という持てる者だけ。
だからこそ私は資本家を目指しているのかもしれません。
※1:
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