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静けさが精神的な豊かさをもたらす

情報化社会の壮大な罠

以前に情報過多の弊害について触れた記事を書いたことがあります(※1)。

日々とめどなく降り注ぐ情報のシャワーを浴びている現代人の脳は、常に浅い情報処理に追われており、デフォルト・モード・ネットワークという脳のメンテナンス機能が働かず、脳の最高中枢である前頭前野の機能が低下し、人間らしさが失われているのではないかみたいなことも書きました(※2)。

このような現象は、ここ20~30年ほどで急速に発展・普及したインターネット、高度な情報化社会の副産物とも言えます。

膨大な情報、娯楽へのアクセスと引き換えに、多くの人が本来の人間らしさを失ってしまっているとすれば、それは現代社会の悲劇、情報化社会の壮大な罠と言えるかもしれません。


読書という静かな営みが知性を育む

インターネットの普及に伴い、読書習慣のある人は今日にいたるまで次第にその数を減らしてきているようです。

中にはインターネットは完全に本にとって代わったという声さえあります。

しかし果たして本当にそうなのでしょうか。

2010年に訳本が出版された『ネット・バカ』という本があります。

ネット民を煽るようななんとも刺激的なタイトルですが、原題は『The Shallows : What the Internet Is Doing to Our Brains.』というもので、"shallows" とは「浅瀬」を意味します。

本の中身はやや冗長さを感じさせますが、内容を一言でいうと、人間の知性の進化の歴史と今日のインターネット時代において我々の脳がどのように変化してきているか、ということについて書かれています。

この本の中で著者のニコラス・カーは、本が人間の知性にいかに大きな影響を与えたかということについて解説しています。

とりわけ歴史のターニングポイントとして挙げられているのは、15世紀ドイツの金属加工職人グーテンベルグによる活版印刷の発明です。

それまでにも本自体は存在していましたが、印刷物がなかった時代には、書き手が書いた原本を読むということしかできず、読書はそれを手に入れることができる一部の知識階級の特権でした。

しかし印刷技術の発明により、安価に本を複製できるようになったことで、読書の習慣が知識階級だけでなく広く一般大衆にもひろまったのです。

このことは何を意味するのか。

本を読むという行為について改めて考えてみると、ある種独特な精神活動が必要とされるということに気が付きます。

本の中で、読書という営みの本質を表しているとして著者が紹介している詩があります。

家は静かで、世界は穏やかだった。
読者は本になった。そして夏の夜は

本が意識を持った存在のようだった。
家は静かで、世界は穏やかだった。

言葉は本など存在しないかのように語られていた、
読者はひたすらページの上にかがみこみ、

ページに近づき、できることなら
本を体現したかのような学者になろうとし、この夏の夜が

その思考の完成系だという人間になろうとしていた。
家が静かだったのは、そうでなければならないからだった。

その静けさは意味の一部、精神の一部だった。
ページの完成へと近づくための。


このかつてのセンター試験の現代文を思わせるような難解、意味深な文を読み解くには、この詩が表現している精神への理解、高度な集中力が必要とされます。

ここまで難解なものに限らず、私たちが文章や本を読むときには、まっさらな紙に書かれた文字に意識を集中し、その文字列の意味するところを考え、さらに書き手が何を意図しているのかということを想像し、読み取ろうとします。

このような精神活動は、自然界においては通常はみられない特異なものです。

野生の動物は常に天敵という脅威に注意を払わなければならず、いわば注意散漫がデフォルトの状態ですが、読書は逆に一点への注意の集中を要求します。

そしてこの本を読むという行為、習慣が普及したことで、人間の脳が集中力、抽象的思考力、想像(創造)力、共感性などを獲得(強化)し(そのメカニズムは脳の可塑性にあります)、そのことが後世の文化や産業の発展に大きく寄与したと著者は主張しています。

時を現在に巻き戻し、インターネットが普及した現代。

インターネットをしている人の脳の神経活動をみると、いろいろな領域で神経細胞が発火(活性化)しているそうです。

次から次へと現れる画像や音声を処理するため、視覚野や聴覚野は活発に働き、また絶え間のないタイピングやマウスの操作は体性感覚野を刺激し続けます。

インターネットをしている時、脳はインプットされてくる膨大な情報を人知れず必死になって処理しているのです。

一方で、紙の本を読んでいる人の脳は静まり返っています。

紙媒体の本はたいてい、まっさらな背景に黒いインクで文字が印刷されているだけのきわめてシンプルなものです。

しかし静けさに包まれた脳には、だからこそ、高度な集中力、思考力を発揮するだけの余力が生まれます。

最近の研究では、同じ内容を読んだとしても、電子書籍よりも紙の本のほうが記憶に残りやすいこともわかっています。

なぜでしょうか。

先の『ネット・バカ』の中では、高度な集中がワーキングメモリー(短期記憶)を長期記憶として固定化するトリガーであるからだと説明されています。

具体的には前頭前野での意識的な集中が、中脳の神経細胞を刺激し、軸索をたどった先のシナプスで海馬へとドーパミンを分泌し、そのシグナルが記憶を司るタンパク質の合成を促進する遺伝子を活性化します。

逆に言うと、高度な集中なくして長期記憶は生まれないのです。

ネットで調べればすぐに情報が手に入るこの時代に、何かを知っているということ、知識があるということにどれほどの価値があるのかと訝る声もあります。

一見もっともらしく聞こえますが、カーはデジタル端末やオンライン上に保存されたデジタル情報と人間の脳に記憶された情報には大きな違いがあると言います。

デジタルに保存された情報は何の操作も加えなければ、全くその形は変わりません。

しかし人間の脳に保存された記憶は、脳内で絶えず刷新され、他の知識や経験との有機的な結合を起こし、それが新しい記憶となり、独自の知見や洞察をもたらします。

いわば人間の脳の記憶は"生きた"記憶であり、長期記憶こそが人間の知性の源であるとカーは主張しているのです。

インプットされる情報がごくシンプルであるからこそ高度な集中力が発揮され、それが人間の知性の源となる長期記憶を生む。

読書という静かな営みが人間の脳、知性を育んでいるのです。


静けさが精神的な豊かさをもたらす

このことは読書や学習に限らず、日常全般にも同じことが言えます。

研究では、街中にいた人よりも、自然豊かな公園で時間を過ごした人の方が認知機能が高まるということがわかっています(※3)。

ある意味、情報処理と集中力、注意力はトレードオフの関係にあると言えます。

外部刺激を極力減らすことで処理すべき情報量が減り、前頭前野を十分に働かせることのできる余裕が生まれ、またメンテナンスモードであるデフォルト・モード・ネットワークが働くことで脳本来のパフォーマンスを発揮しやすくなります。

ドラゴンボールの「精神と時の部屋」をご存じでしょうか。

現実世界よりも時間の流れの速い異空間には、居住区である神殿以外は辺り一面、何もない空間が広がっています。

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何もない。

しかしそのことが余計なことに注意を払う必要のない、修行だけに集中することのできる環境を作り出し、潜在的なパワーを引き出す役割を果たしているのかもしれません。

先に前頭前野とストレスの関係についても触れましたが、デフォルト・モード・ネットワークがよく働き、前頭前野がクリーンな状態に保たれていると、集中力・思考力に優れ、ストレスに強く、前向きで自制の効いたマインドが生まれやすくなります(※4)。

静けさは良いコンディション、精神的な豊かさを生むと言えます。

古代中国三国時代の諸葛孔明など、過去の偉人や賢人は、人里はなれた場所に隠棲している例が多いように思いますが、彼らは経験的にそのことを知っていたのかもしれません。

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先人にならい、現代に生きる賢者(ニート)となれた暁には、静けさのある場所に腰を据えたいところです。

あまりに田舎過ぎるとそれはそれで退屈かもしれませんが、少なくともそれが都心ではないことは確かだと思います。


※1:

※2:

※3:

※4:




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