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人生の不確実性にどう向き合うか

逃れられない人生の不確実性

先日、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性が致死量の鎮静剤を投与され安楽死したという報道がありました。

国内では自殺幇助は違法行為であり、薬剤を投与した医師は嘱託殺人の罪に問われています。

ALSは神経変性疾患で、脊髄より中枢の上位運動ニューロン、それよりも末梢の下位運動ニューロンがいずれも変性を起こして全身の筋力低下が起き、最終的には呼吸筋が麻痺して死に至る病です。

常染色体優性遺伝の遺伝性疾患として発症するケースもありますが、ほとんどは孤発性(遺伝的素因の特定できない)であり、生活習慣病などとは違って予防しようのない病気です。

今回安楽死が報道された女性は40代で発症し、以降24時間の介護を受けて生活していたとされています。

病気や事故、障害はいつ何時、自分や家族の身にやってくるかわかりません。

人生には避けようのないダウンサイドリスクが常について回っています。

いわば人生そのものが不確実性に満ちたギャンブルだとも言えるかもしれません。

そのようなリスクに対し、金銭的な貯えをしておくなどの備えはできるかもしれませんが、根本的に対策をすることはできません。

文明の発展により、人類の生存率、平均余命は飛躍的に向上しました。

しかしどれだけテクノロジーが進歩しようとも、人生の不確実性からは何人たりとも逃れることはできないのです。

人生とはストーリーではなく結果?

前回、現代に生きる私たちには人生のシナリオを描くような発想が必要なのかもしれないというようなことを書きました(※1)。

しかし自分で書いておいて何ですが、この考え方は、不確実性に満ちているという人生の本質とは相容れない部分があります。

そもそも、こういう人生を歩みたいと青写真を描いたところで、理想通りに事が運ぶことの方が少ないと言えるでしょう。

さらに言えば、本来は生というものに対し、あらかじめ予定を立てるような発想ほど滑稽なものはないのかもしれません。

たとえばその辺のハトがエサを目の前にして、「週末はごちそうにありつけるから、今日の食事は少し軽めにしておこう」なんてことを考えるでしょうか。

人類は天敵、飢餓、災害などあらゆる生命の脅威を克服し、もはや動物というカテゴリーからは一線を画す存在となりましたが、自然界の掟の下に生きる野生の動物を眺めていて感じるのは、生命とは基本的に綱渡りのようなものなのではないかということです。

その時その時を生きることに一生懸命。

そこに動物として生きることの本質があるような気がします。

すなわち人生というのは、"今この時"という点を無数に繋いでいった結果として出来上がるものであり、はなから計画を立てて辿っていくようなものではないのだと思います。

そもそも種の繁栄のための遺伝子の乗り物に過ぎない一個体が、順風満帆なストーリー、ハッピーエンドを望もうなど、おこがましい話なのかもしれません。

それならなんでお前は投資なんかやっているんだ、投資こそ将来のため以外の何物でもないじゃないかと言われそうですが、あるかもわからない将来のことに対して必要以上に時間や労力をかけるのは非合理的と言わざるを得ないかもしれません(投資すること自体が面白いという部分もありますが…)。

不確実性への処方箋

これまでに書いた記事を読み返すと、似たようなことを以前にも書いている(※2)ことに気づきました。

もちろん幾何かは将来への備えは必要かもしれませんが、根本的に人生の不確実性へのリスクヘッジができない以上、そのことについて考え過ぎるのはやはりナンセンスです。

そんな中できることと言えば、考えてもどうにもならないことをうだうだと考えるのはやめて、"今この時"を面白おかしく生きること、そのことだけにフォーカスするのが、対症療法的ですが一つの処方箋になるのかもしれません。

いろいろと余計なことを考えすぎてしまう時は、今日も必死になってエサをつついている公園のハトでも眺めて、本来の動物としての在り方を思い出すことにします。


※1:

※2:


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