社会的弱者について思うこと
人生はどうにもならないことだらけ
以前に一切皆苦という仏教の概念について触れたことがあります(※1)。
世の中は自分のコントロールの及ばないことで溢れています。私は常日頃、そのことを忘れないように心掛けているつもりです。
幸いにも私はまだ自分が弱者だと自覚するような境遇には置かれていないと思います。
しかしそれは結局のところたまたまなのです。
誰しもいつ何時弱者になるかわからない
私だけがどうしてこんな目に合うんだ。不幸な目にあった人は自分の人生を恨み、そこに理由を求めます。
しかしいくら理由を探したところで、そんなものはないケースの方が大半でしょう。
その人たちは別に人の目につかないところで何か重い罪を犯したがために、ひどい目に合っているわけではないと思います。
単にたまたま。それだけです。
私はすべての結果には必ず原因があるとする因果論を信じていません。世の中には厄災とでもいうべき不幸・不運が溢れています。そのすべての原因をその人に求めるのは、いくらなんでも無理があるように思います。
この世の理不尽に耐え兼ねた人たちが救済を求めて行き着くのが宗教なのかもしれません。
私もかつてはどちらかと言えば自己責任論者でした。
しかし様々なことを見聞きする中で、世の中にはたくさんの理不尽が溢れていることを否が応でも知ることになります。
どんな人であってもいつ何時、弱者になるかはわからないと思います。
弱者に対するいたわりの心を
私は仕事柄、社会的に弱い立場の人と接することがあります。往々にしてそんな人たちは一見、その人の責任で落ちぶれてしまったようにも映ります。
そして多くの場合はその通りなのかもしれません。
しかし少し思いを巡らせると、当事者でなければ知り得ない事情というものが何かしらあるのではないかということに気が付きます。
本人からしてみたら、そう言われてもどうしようもない。そんな境遇にある人は少なからずいるのではないでしょうか。
社会的な強い・弱いという立場を分かつのは、単なる時の運。誰も好き好んで弱者になったわけではないはずです(あえて弱者となることでその恩恵を享受しているような輩を除いて)。
ひとつボタンを掛け違えていたら、今頃自分が弱者の側に立たされていたかもしれません。
弱者に対するいたわりの心を忘れてはならないと思います。
※1:
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