"誰が言ったか" "何を言ったか"

人は"誰が言ったか"を重視するようプログラムされている

注:これは完全な妄想です

太古の昔、人間がまだ明日生き延びることに必死だった時代。

情報は文字通り生死に直結していました。

たとえば未開の地に食糧を探しに行く時、その場所は果たして安全な場所なのでしょうか。天敵がいたりするような危険な場所であれば、そこで命を失うことにもなりかねません。

その地に行くべきか行かざるべきか。運を天に任せ、実際に赴いてみる。それしか方法はなかったかもしれません。

しかしそこに実際に行ったことのある人がいる場合、その人の意見を聞くということができます。

「あそこにはおいしい木の実がたくさん落ちていたよ」

さてこの場合、彼の言うことをそのまま信じてよいものでしょうか。

同じ群れの仲間である場合、彼とは運命共同体でもあり、陥れようとしてくる動機はあまりなさそうです。

一方、違う群れの人間であったり、同じ仲間内でも仲の悪い人間が教えてくれたことであったとしたらどうでしょう。

誰彼構わず人の言うことを信じていたご先祖様もいたかもしれません。しかしそんな人は時に嘘の情報を吹き込まれ、騙され、ハメられてしまったかもしれません。

彼の血は、現代にいたるまでの間に途絶えてしまっていたとしても不思議ではありません。

そこには強力な淘汰圧がかかっていたと考えられます。

現存している人類は、信頼出来る仲間の言うことしか聞かなかった個体の末裔。そう考えることもできます。

私たちはみな、生まれながらにして"人を信じる"ようにプログラムされているのかもしれません。

権威主義が垣間見えるTwitter

ツイッターでもその一端を垣間見ることができます。

フォロワーの多いアカウントは"面白い"、"ためになる"などフォローされている理由が何であれ、多くの支持を集めています。それは一つの権威・信頼を獲得している状態と言えるでしょう。

権威あるアカウントはフォロワーが多いがゆえにさらなる信頼を集め、より多くのフォロワーを獲得していきます。

また同じようなことが"バズる"ツイートにも言えそうです。

ひとたび"いいね"やリツイートをされ始めると「みんなが良いと言っているのだから、価値あるツイートなんだろう」というバイアスが生じます。そこにはやはり一つの権威が生まれます。

そして"いいね"やリツイートをされ始めたツイートは、"いいね"やリツイートをされればされるほど加速度的に権威を増していき、結果として"バズる"。

背景にはこういったメカニズムがあると考えられますが、これも権威主義のなせる業と言えるかもしれません。

"人を信じる"のは効率的

情報が溢れる現代社会においてはいわんや、いつの時代でも何が正しいのか皆目見当がつかないという状況は数限りなくあったはずです。

そういう状況でも何かを決断しなければいけない。そんな時はどうすればいいのでしょうか。

自分が判断できる材料を持たない場合には、やはり"信頼出来る人"の言うことを信じるほかなかったのではないでしょうか。

その事柄に疎ければ疎いほど、情報の真偽を実際に自分で確かめるという行為はとても骨の折れることです。場合によっては命の危険に晒されることにもなるでしょう。

そうした状況で素早く何かを決断するには、やはり"人を信じる"しかありません。

信頼できる情報源を見つける

信頼出来る人の言うことだけに耳を傾ける。生存戦略としては確かに合理的かもしれません。

しかし身の安全が保証された現代に生きる私たちにとっては、ある意味それはもったいないことかもしれません。

さまざまな情報によってインスパイアされ、新たな着想を得るということは意外と多いものです。

たとえ誰の発言であっても、その内容の妥当性を自分なりに検証することができれば、「この人の言うことには一理ある」という判断ができます。そしてその積み重ねが新しい信頼を生んでいくということにもつながります。

ただし注意すべきは、信頼できる情報源(ソース)だと一度判定したからと言って、盲目的にそのソースからの情報を信じるようなことは避けなければいけない、ということです。

これは既存の権威に対しても言えることですが、常に正しいことを言っているとは限らないのです。

ここでの信頼とは、相対的に価値のある情報を提供してくれるという意味での信頼であって絶対的なものではなく、可能な限りその情報を検証しようとする姿勢は失ってはならないと思います。

ただ信頼の置けるソースが多いほど、それだけ物事を多角的に見ることができ、より正確に分析することもできるようになります。

自分にとって有益な情報を発信していて、かつ信頼出来るソースを確保すること。この情報化社会においてますますその重要性は高くなってきていると思います。

しかしここで一つ反論が生まれます。それほど信頼に足るソースなのであれば、周りもそれに気づいているはず。既に権威化され、影響力を持っているはずではないかということです。

現時点で権威がないのであれば、それはそもそも取るに足らないソースなのではないかという疑念も生じます。

優良ソースは埋もれていることがある

私は株式投資をしていますが、投資の世界には効率的市場仮説という学説があります。市場参加者を総体として見たとき、株価に影響を与えるあらゆる情報が瞬時に行き渡り、割安なものは買われ、割高なものは売られという裁定取引が即座に行われるため、金融商品は常に適正な価格で取引されているという仮説です。

しかし市場に身を置いてしばらくすると、その仮説の正当性に疑いの目を向けざるを得なくなります。市場は毎日のようにどこかで暴騰・暴落を繰り返しています。市場全体の指数に連動するインデックスファンドを超える成績を残している投資家もそれなりの数存在しています。

前置きが長くなりました。

何が言いたいのかというと、株式市場が決して効率的とは言い切れないように、個々のオーソリティーというものも正当に評価されていないのではないか、ということです。

多分に過小(過大)評価されているソースがあるのではないかと私は思っています。

いいことを言っているにも関わらず、ブランディング・マーケティング戦略を持たないがために陽の目を見ない人達。

世の中に意外といるような気もします。というかそれを望んでいないがために、あまり積極的に表舞台に姿を現さないというケースが多いのかもしれません。

既に権威あるソースだけを信頼する。それは確かに安全で効率的かもしれません。

でももっと外の世界を知りたい。より多くの着想を得たいと思うなら、ときには知らない人の意見にも耳を傾け、自分なりにその内容を検証する。そういうスタンスもときには必要かもしれません。

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