震災が教えてくれたこと

「地震やっ!」
午後4時過ぎ、珍しく家族が一カ所に集まっている時に、横揺れの地震があった。東日本大震災を思い出させる、船酔いするような揺れ方。見ていたテレビがすべて地震情報に切り替わり、警報音とアナウンサーの危機感を促す強くて低い声が鳴り響く。


富山県に母の弟が住んでいたから、母がメールを送っていた。母の兄によると、年末に京都の実家に帰っていたようだが、大晦日に富山に戻ったという。すぐに返事がなく、やきもきしながらも、東日本大震災ほどひどいものではなさそうだと高を括っていた。


しかし、一夜明けてニュースをみると、想像以上の被害状況で地震の爪痕が映し出されていた。輪島が焼野原になり、たくさんの家がぺしゃんこになり、大きなビルも倒れている。道路に大きな亀裂が入り、山沿いの道は崩れて通行できない。ニュースで娘2人が下敷きになって亡くなったという年配の男性が「涙が出てくる」と冷静に話しているのが不思議だった。


母の弟から返信があり、怪我はないが車で避難所に向かったという。それでも道路に亀裂が入り、車は大渋滞だと連絡があった。


思い出したのは、つい先日、東日本大震災後のボランティアを結成された方から頂いた活動記録に書かれていたことだった。震災発生の1ヶ月後、地元の碧南市からテントを借り、石巻市にベースキャンプを張り、全国の仲間に呼びかけ10年間支援を続けてこられた。活動記録には、当時の様子の写真と、ボランティアに参加した仲間たちの寄稿文が載せられている。


寄稿した仲間のうちの一人は、普段から京都で清掃活動をしている先輩だ。その先輩の寄稿文に、立浜の漁師からもらった言葉が書かれていた。



「誰が悪いわけでもない!俺たちはここで生まれて、育ってきたんだから。この事実を受け止めて、これからもここで生きていくよ!みんな無くなってしまって体と海だけ残った。また始めるだけ!」


支援しにいっているつもりが、被災者から真心をもらったと書いてあった。現地に赴き、原体験しからこそ感じ取った言葉が綴られていた。その先輩に直接あった時に、「読んで思わず涙が出てきた」と伝えると、書ききれなかった体験談を話してくれた。


「最初にいった時は、“なんやこの人たちも見学にきたんか”と言わんばかりの心を閉ざした目で見られてたんや。でも何度か行くうちに、バスに乗って帰る時、窓からみると、被災者の人たちが頭を下げて見送ってくれていた。多くのボランティアは、瓦礫などは機械を使って遺骨も一緒くたにして除去していた。でもこの東日本救援隊は、一つ一つ遺骨を丁寧に拾っていたんや。」


災害時のボランティアの在り方について考えされられた体験談だった。どうしても支援する側は「支援してやってる」という雰囲気を出してしまう。でも、被災者は敏感にボランティアに来る人たちの人間性を感じ取る。きっと、当時は被災地を見学ツアーかのように見に来た人も多かったのかもしれない。人の不幸を見世物にしてくれるな、という気持ちだったんだろう。


私は恥ずかしながらそういった支援をした経験がない。だから、少しでも力になればと、ヤフーネット募金で微力ながら寄付させていただいた。


ニュースを見ていると不安な気持ちになり、何をしたらいいのかと気持ちだけが浮ついて、ふわふわしてしまう。そんな時、潜在意識のセラピストの言葉が目に飛び込んできた。


「こういうとき、動揺したり、恐れが発動したり、心配したりするのが普通だと思います。が、心配したあとは軽く目を瞑って、ゆっくり息を細く永く吐きましょう」


その言葉の後に、深くゆっくりした呼吸を繰り返しながら、自分自身が光で包まれているイメージをして、その光が拡大し、石川県まで及び、安堵が地球すべてを包み込むイメージをすると書かれてあった。これが「祈り」だという。


そういえば、父はお正月の三が日、朝と晩にお経をとなえている。お経は、お釈迦さんが説いた教えが書かれてあり、生きている人に向けたものだと言われているが、父が、先祖代々、そして災害で亡くなった方への鎮魂を祈っていた。


両手を合わせて、心を落ち着かせ、温かい光で祈りをささげたい。

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