崇仁地区と読書会

京都には、同和地区と呼ばれる場所がいくつかある。そのうちの一つが、京都駅の北東に位置する崇仁(すうじん)地区だ。


先週末に、京都ちおん舎読書会の15周年記念会に参加した。京都ちおん舎のことについては、また改めて書こうと思う。読書会では、教育者であった、森信三先生の著者『修身教授録』という、教育者として大切にすべきことが書かれている本を読む。参加者全員で輪読し、読後感について意見交換をする。掃除に学ぶ会と同時期に発足された会で、掃除が実践とすれば、読書会は理論。両輪を学ぶために始まった。


お掃除仲間から、何度も誘われていたけど、なかなか参加にいたらず、今回は記念大会ということで初めて参加した。


『修身教授録』に“S小学校”という表現で紹介されている一節がある。京都ちおん舎読書会の事務局、藤尾さんが崇仁地区出身で、どうやらそのS小学校がかつて崇仁地区にあった崇仁小学校を指すようだということがわかり、今回は崇仁地区のフィールドワークも含めたイベントだった。


同和地区、というと被差別部落としてネガティブなイメージを持つ人が多いのかもしれない。私も、全くないかと言われたら嘘になる。小学校で教えられたことや人から聞いて勝手なイメージを持っていた。でも、フィールドワークに参加して少し見方が変わった。


かつての崇仁小学校は、現在京都市立美術工芸高校になっている。閉められた校門から見える中庭に、立派ないちょうの木が立っている。第11代校長伊東茂光先生がお手植えされたという。


「崇仁の人たちは、“うちらの学校”って言ってたんですよ」


小学校は、ほぼ住民の寄付金によって建設された。

「お金がある人は寄付金を、知恵がある人はアイディアを、どちらもない人は労働力を」


川べりの土地に建物を建てる前に、水捌けが良くなるよう、鴨川の砂利を運ぶ必要がある。敷地整備の日には1500人もの住民が集まったそうだ。


崇仁地区の北部は、東西の通り名でいうと、塩小路通と七条通の間にある。下京区いきいきセンターの3階からら北部の地域が見渡せた。


京都は北から南に向かって、東西の通りが一条、二条、三条と順番になっている。しかし、崇仁地区の北側、七条通りの南側にあるのに、“六条”と呼ばれている場所がある。

かつて、六条は、ちゃんと七条通りの北側にあった。そこは、淀から水運によって運ばれてくる荷物を下ろす場所として、人夫が多く住み込みしていた。日銭を稼ぐ人夫目当てに、その場所に遊郭を作ろうという計画が立ち上がった。

しかし、その場所には穢多と呼ばれる革製品を扱う人たちがおり、動物の皮を剥ぐため、悪臭が漂う。だから、遊郭を作るのには六条が邪魔になった。


そこで、抗争があったのか?と思ったが、ちゃと話し合いが行われ、穢多側が七条通りの南側に移動するということで、平和的に解決したそうだ。


穢多と聞くと、迫害され、狭い区画に隔離され、一般市民と対立していたように言われることがあるが、実際は、もっと周りは寛容的だったのかもしれない。


崇仁地区には、かつて仏師が集まっている場所があった。今の時代に仏師と聞くと、高い技術を持ち、尊敬されるような存在だが、江戸時代は差別されていた。ゼロから新しいものを生み出すことは、普通の人間にはできない、という価値観のもと、それが尊敬ではなく、「人間ではない」と自分たちとは異なる存在として蔑まれていたそうだ。だから、病気を治す医者なども同じように見られていた時期もあったという。



そんな、崇仁地区の歴史を辿り、自分の中で少し納得したことがある。それは、いつの時代も争いの原因は「分離」にあるということだ。それは、他人に対して、「自分とはちがう」と切り離すことはもちろん、自分の中にある様々な感情に対しても、これはダメ、あれはいい、と切り離すことにもある。それは、私たちが感じている「自分」のはじまりが、オギャアと生まれてからたった数十年の人生を「自分だけのもの」と誤認することから始まる。


自分のもの、自分の人生、自分の時間。
自分を意識しすぎるほど、豊かさから遠ざかっていく。自分を蔑ろにせずに、自分も周りの人も、同じ時間を共有する仲間として、寛容な心でいたいなと思った。

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