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殺人の合理化と優先順位 『機動戦士ガンダム 水星の魔女』12話感想【アニメ感想文】

(画像は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第一話から引用)

こんにちは。深夜区トウカと申します。
今回は珍しく「アニメの感想文」という構図で記事を執筆しました。
普段はもう少し穿ったといいますかまどろっこしい感想を書いていますが、今回は浦飯幽助の右ストレートばりにまっすぐな感想文となっています。

ここから先はもちろんネタバレだらけですので、まだ視聴していないという方はご注意ください!

本記事執筆にあたって

早速本文に入っていきたいのですが、その前に、今回の感想記事を執筆する直接の理由となったものが何かを語る時間をいただきたいです。

なぜわざわざ動機を前置きとして書くのかというと、そこでの"理由"が本記事全体のテーマとなっているからです。

私が本記事を執筆・公開した理由、そして一言物申したい点は「スレッタのキャラクター像が安易な方向に理解されてしまっている現状」です。

これに関してはマガジンの共同執筆者である藤吉なかの氏とも討論を重ね、討論の結果、やはり「スレッタはサイコパス」といったキャラ付けが簡単になされすぎているのではないか、といった意見に落ち着きました。

確かに、Cパート最後のシーンはショッキングなものでした。それに対して「性格がおかしい」「サイコパスなのでは」「急におかしくなった」という声が上がるのもよくわかります。
ですが、スレッタの行った行為とその際の心情とはそう簡単に結論付けて良いものなのでしょうか?

色々なことを考えた結果として「やっぱりおかしい」と感じるのであればそれは問題ないと思います。
ですが、衝撃のあまり安易なキャラクター像を作ってしまう、簡単な言葉(例:サイコパス、殺人鬼、ロボット等)で表してしまうというのは少し勿体ないという気がします。

この時に大事なのは"想像してみること"ではないでしょうか。

今回は、そんなスレッタの心情をアニメの感想を交えつつ自分なりに考えていきます。

A,Bパート感想

一期のテーマでもあるのでしょうが、今回のお話からは全体を通して「親子の物語」「世代交代」というテーマを感じました。

例えば、自身を庇い大きな傷を負った父親を見て、今まで反目していた態度を翻し、どんな手立てを使っても助けるという覚悟を決めたミオリネ。

例えば、「死にたくない!」「まだスレッタ・マーキュリーに進めていない!」という個人的な(=自分が生き残るための)理由から目の前のモビルスーツを破壊し、結果的に父親を殺してしまったグエル。
(今となってはどうでもいいですが「若造に舐められてたまるか!」という理由で現場を無視しモビルスーツに乗る上司というのは相当厄介ですよね)

そして、自分を助ける為に他人を容赦なく殺す母親の姿を見たスレッタ。以上の三つの例は完全に親子の話です。

ミオリネは父親の本心を知って(もちろんそれだけが理由なのではなく、後のスレッタにも通ずる"目の前にある大切な人を助ける"という気持ちもあるでしょう)「過去の自分と対立してもいいから父を助ける」という覚悟を決めます。

グエルははからずしも自然界における独り立ちの通過儀礼、「親の子殺し」を行うことになりました。
これは今まで学校という場所ではホルダーという名のボスだった(スレッタにその地位も剥奪されたわけですが)ものの、一度家(会社?)に帰れば親の意思には逆らえないという立ち位置にいたグエルにとっては本物のボスとなる契機になるでしょう。
もちろん、それが当人の幸福だとは限りませんが。

そしてスレッタです。ここは今までの12話全てを通しても重要なシーンですね。
徘徊するテロリストから逃れる為に息を潜めるスレッタ。そのテロリストを手慣れた動作で殺害しスレッタの元によるレディ・プロスペラ(以下、母と表記)。この時点でのスレッタは目の前で人を殺した母の様子を見て相当動転しています。

しかし、母は「進めば2つ」の話を持ち出しながら「今(テロリスト達を)殺さなければスレッタが死んでいた」という正論をぶつけ、なおかつ「こうして進むことで初めて誰かを守れる」という意見を展開しています。善悪の議論は置いておくとして、戦場であれば確かにその理論は正しいものです。

それにしてもここで『祝福』の優しいアレンジが流れるあたりがもう…あまりにも嫌だな〜…。いやらしい作りをしていて最高だなと思いました。

Cパート感想

そして話は大反響のCパートへと移ろいます。
まずミオリネが父を背負いながら「絶対死なせない!一晩中ベッドで罵倒し続けてやるんだから!」というセリフを発する生への固執、執着が描かれたシーンから場面は始まります。

その後すぐにテロリストが現れ窮地に。そこにエアリアルと共に現れ、まるで子供を諭すようなテンションでペチャっとあまりにも簡単に人を殺すスレッタ。
生に拘るミオリネの前であまりにも簡単に命を奪う…2つのシーンの対比が非常に印象的です。

また、潰れ方の様子を見るに1期を通して描かれ続けて来たトマトというモチーフとの対比にもなっているのでしょう。
テンポ感もありだいぶショッキングなシーンでしたね…。

そして「しまらないな〜アハハ」と笑いながら血まみれの手を差し出すスレッタと「なんで笑ってんの、人殺し!」と怯えるミオリネ!ここの価値観のすれ違い方とその描き方があまりにも素晴らしくて最高だなと思いました。

11話でミオリネが「進んで良かった」と強調していたのがこんな風に繋がってくるという…。こういう展開を望んでいたので、ここがヒキというのはだいぶ良い…。
なんにせよ、あまりにも続きの気になるTo be continued…でしたね。


ちなみに『魔女ラジ』によると「しまらないな〜」のシーンは多少コミカルに見えるくらいで良いからという指示を受けつつの演技だったそうです。

市ノ瀬さんの演技は本当に素晴らしかったですね。あの場面で感じる異質さを最大限表現した、まさに快演だったと思います。

「殺人の合理化」と「優先順位」から考えるスレッタの心理

さて、ここからはCパートにおけるスレッタの心理を考えていきます。タイトルにある通り、「殺人の合理化」「優先順位」という二つのテーマを用いながら考えることにしました。

まず、「殺人の合理化」という概念をスレッタに適応しようと思った直接のきっかけは前述の藤吉なかの氏との討論の最中、藤吉氏が「スレッタの事を安易に否定するのは戦時下の人々を洗脳されていたと切り捨てるのと同じ」という例えを用いていたのを見て「たしかに!」と思った事から来ています。

ただ、ここでは"母親からの洗脳"というよりかは"戦場での兵士"という切り口から理論を作っていった方が良いのではと感じ、その場合どんな論理が良いかと考えていた時にこの概念を思い出したのです。

「殺人の合理化」とは、軍人としての経歴を持った心理学者(この場合は心理学より社会学の方が近い気もします)デーヴ・グロスマン氏による『戦争における「人殺し」の心理学』という本に登場する概念です。

この語の意味について簡単に説明します(専門という訳ではないので言葉遣いなどに間違いがあるかもしれませんがご容赦ください)。
人間は元来、人を殺すという行為に抵抗を持っている生き物であり、それを"受け入れるための手段"
「あの時撃たなければこちらが撃たれていた」「あの時撃ったおかげで大勢の命が助かった、街や仲間が守られた」
という合理化である、ということです。


著者の中でこの行為はベトナム帰還兵などの人を殺めてしまった人物が自身を正当化するために心の中で行っていること、つまり殺めてしまった後に行うことだと紹介されていました。
しかし自身が人を殺すより先に他者(母親)が
「大切な人を守る為」
に人を殺した場面を見て、その後母からの言葉で
「他者を守る為なら人を殺して良い」
という合理化が行われたと考えると十分にスレッタにも適応できる理論であることがわかります。

この理論に照らし合わせればスレッタは葛藤の末に合理化を行い、結果として他人を殺すことが可能になったという図式が浮かび上がってきます。

「だからといって殺すまで行くか?」という疑問はありますが、それは程度問題ではないでしょうか。
スレッタの行動は流石に振り切りすぎの気はありますが、ロジックとしては破綻していません。

第二に考えるべきことは、「優先順位」です。
あの場面でスレッタにとって最も優先されるべきことは「ミオリネの命を守ること=迅速かつ周りに被害が及ばない形でテロリストを始末すること」だと言えます。

一部の方が「なにも手で潰す必要はない。ガンビットからの射撃で良かったのでは」と言っていましたが、それでは展開に時間がかかるため"迅速に"という条件が満たせません。

さらに、出力が高すぎて思いもよらない箇所まで巻き込んでしまうという可能性を考慮すると"周りに被害が及ばない"という条件も満たせていないことがわかります。
それらを考慮すると、あの場面において"潰す"という選択肢は最適解だったと言えるのではないでしょうか。


さらに強調したいのは、「スレッタが殺人を行った理由はミオリネを守るためである」という純然たる事実です。
まずはミオリネの命が最優先、どんな方法でもいいからミオリネを守らなくてはいけない。そんな状況だったからこそ殺人という手段を選んだのです。

スレッタが特殊だったとすれば、「多くの人間はどんな理由であれ殺人を行う際は少しは躊躇する」という点と「人を殺めたら罪悪感がつのる(=笑顔を見せたりしない」という点でしょう。

この事も前者はともかくとして後者は優先順位で説明することができます。

テロリストを殺した後真っ先にスレッタの頭をよぎる事といえばミオリネの安否です。あの場面は安否確認が最優先であり、手に血が付いてることは問題外。
それを踏まえれば、「まずはミオリネの様子を見に行く」というのは十分に理解できます。

そこで笑顔を見せたのも最優先事項であるミオリネの救助が達成できていたから。
この時点のスレッタは「人を殺した」というちっぽけな事象、手段はもう頭にないということがよくわかります。

より好意的に解釈するならば「自身が安心していることをアピールしミオリネの安心を誘うため」、という見方もできるでしょうが、流石にそこまで深い意図が隠されているとは思えないので「人を殺したという事実が(我々から見ると)極端に軽いものになっている」ということなのでしょう。
これもやはり程度問題です。

以上の理論を踏まえ、私は「スレッタは人を殺すことに対して何も思っていないサイコパス」という意見に反対します。
ちなみに「ロジックとしては成立しているけど殺人に対する意識が軽すぎる」という意見には大賛成です。

その上でスレッタをどう評価するか、という結論はその人にその人に委ねられるべきではないか、というのが私なりの結論です。

それにしても、「ミオリネのためなら人も殺す」というのがスレッタなりの覚悟、「進めば二つ」だったというのが少し物哀しい感じがしますね。
11話でミオリネは「進んで良かったって言ってんの!」と卑屈になっているスレッタを鼓舞していましたが、その言葉がこんな形で返ってくるというのは…。

お互い確実に成長はしているのに「人を生かしたミオリネ」と「人を殺したスレッタ」という形ですれ違いが起こっているというのは非常に残酷です。

なのでちょっと誰も責められない…というのが個人としての結論になりました。

あとがき

思ったより長めかつアカデミックな感想文になってしまいましたね。もっと軽く早い手にするつもりだったのでこの文字数となったのは自分でも少々驚きです。

それだけ自分の中に色々な感情が渦巻いていたことなのでしょう。

悪意を込めたつもりはありませんが、気分を害す方がいたとしたら申し訳ないです。もう少しライトになる予定だったんです…。

それにしても、第二クールに向けて最高のヒキでしたね…!!!
人を殺すことへの葛藤や価値観の相違によるすれ違いというテーマはもう大好物なので12話でめちゃめちゃ上がりました!本当に良いアニメ

4月の第二クール放送がいまから待ちきれません…。
『魔女ラジ』でギリギリ生命を保つ生活がこれから3ヶ月も続くと思うと………エアポーカー第三戦で酸素の枯渇と弛緩を味わっている『嘘喰い』斑目獏のような気分です。永い…!


お読みいただきありがとうございました!

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