苦労話は買ってでもしろ


冷えたご飯に塩かけて食べたことないでしょ?


それは自分が学生時代にどんなに苦労をしていたか、そして実家暮らしの僕がどんなに甘やかされてるかという話をしたいがために先輩が僕に放ったセリフだった。

せめてご飯をあっためることはできたんじゃないですか?
と言いかけたが、苦労話が上乗せされるのは想像に容易かったので僕は口を噤んだ。

バイト先の店長が大阪に出てきた初日の夜は家具が1つもない部屋のかたいフローリングの上で寝たという話を聞いた時も、準備が悪いなーと思ったがもちろん口を噤んだ。


確かに僕は苦労という苦労をしたことがない。
毎日家に帰れば、ほかほかごはんが待ってるし、あったかいふとんでねむっている。

そこそこ恵まれた環境とリスクを犯さない性格が相まってこれまで無意識的に苦労から逃げていたのかもしれない。


苦労は買ってでもしろという言葉があるが、本当にお金を払ってまで辛い思いをしたい人はいないはずだ。


それなのに、やけに周りには自分がどれだけ苦労したかということを話したがる人が多いのだ。
会社の飲み会ともなると上司たちは苦労話は大人のたしなみと言わんばかりに、あのころは…が枕詞のエピソードを次々と披露してくる。


僕が知らないだけで苦労をせずに苦労話を手に入れる方法があるんだろうか。


少し前には最新ジャンルとして平積みにされていただろう
「コロナ離婚 これからは愛もリモート」
と表紙に書かれたエピソードも「こ」の棚に並べられ、値引きのシールが貼られている。
苦労話のトレンドも移り変わりが早いみたいだ。

ここは苦労話専門店。
したためられた苦労話たちはハードカバーに収められて陳列されている。店の内装はほとんど本屋のようなものだが、ここには一つとして同じ話はない。
各々のエピソードが内容に見合った値段で売られていて、数百円のものから数十万円のエピソードまである。
そこそこの値段のものなら、1つ持っておけばどんな飲み会でもそのエピソード1本で主役になれるといった代物なのだ。


「失恋のジャンルで5000円くらいのを探してるんですけど…
なるべく身の丈にあったやつで。」

二十歳過ぎくらいの女性が尋ねる。
恋愛経験が少なくて女子会で話すエピソードがなくて困っているようだ。


「それでしたらこちらなんてどうですかね?」

お世辞にも恋愛経験が豊富そうとは思えない店員が答える…



なんてね。

そんな店があるなら僕も行ってみたい。
ワゴンに入れられた旧作のワンコイン苦労話をいくつか買ってポケットに常備しておこう。

もし飲み会のたびに同じ苦労話をしている上司があなたの周りにいるなら、それはせっかく大金をはたいて買ったのにまだ元を取れていないからなのかもしれない。

「いくらしたんだろなぁ」

腕時計を見るときのようなそんな気持ちで、これからはピカピカの苦労話に少し耳を傾けてみようじゃないか。

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