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2021年1月2日 雑記

2021年の正月。一月二日。三が日の真ん中。時計を見ると昼の3時だ。
ふだんはあまりコロナのことは気にせず外に出ているのだけど、年始は一応自粛している。
家から出ることもなく、ご飯を食べ、こたつで本を読む。酒を飲んで画面越しに友達と話す。オンラインでの飲み会が終わると、またこたつに入って本を読む。
昨日は朝の5時に布団に入った。起きたのは昼の2時だ。完全に昼夜が逆転している。生活リズムが崩れて思い浮かぶことにろくなことはない。

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さっきまでは『禅とオートバイ修理技術』を読んでいた。この本を年末に手に入れてから、もう読むのは3周目になるが、飽きない。

『禅とオートバイ修理技術』はとある哲学者が「クオリティ」を巡る哲学紀行だ。
「クオリティ」という言葉は本書の造語である。その言葉を定義することは難しい。実際、筆者も本書を通じて「クオリティ」というものがいったいなにかを模索することになる。

ひとつ簡単な例をあげてみる。
ここに二つの文章がある。ひとつめの文章は書き手ですら驚くほどによくできた文章だ。一方、二つ目の文章は平凡極まりない文章である。
この二つの文章を読み比べたとき、私たちは「ひとつめの文章は二つ目の文章よりもよかった」と評価するだろう。
しかし、その「良さ」を定義することはできない。ほかのさまざまな単語で言い換えることはできよう。しかし、絶対に定義することはできない。これを著者は「クオリティ」と呼ぶ。

もう一つ例をあげよう。
物事には二つの捉え方がある。
ひとつは感覚的に物事を捉えること、もう一つは合理的に物事を捉えること。どちらが優れていたり、劣っているわけでもない。
前者が特に優れている人は芸術家肌であるだろうし、後者が特に優れている人は科学者かもしれない。
しかし、じつはもう一つのとらえ方が存在する。感覚と理性を調和させたもの。これもまた著者は「クオリティ」と呼ぶ。

「クオリティ」を巡る問いかけ、ギリシャ哲学から東洋の禅の思想へ。最終的に筆者は狂人とみなされ、電気ショックで過去を失った。

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いま読んでいるのは『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』である。


タイトルの通り、筆者がなぜ俗世を離れ小屋で一人暮らしをするようになったかを綴った自伝となる。
幼少期のある日、唐突に訪れた「自分はいつか消えて無くなる」という絶対的な死の感覚。

生とはなにか、死とはなにか。

「全身全霊で生きること」を目指すために、紆余曲折を経て、最終的に筆者は合法的に俗世から距離をとることになる。
それが小屋暮らしだった。小屋暮らしで生と向き合うことを選んだ著者は、ありとあらゆる人間関係を、友人を、恋人を、すべて清算することになった。

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ぼくはこの手の哲学を取り扱った本が好きだ。正確に書くと「哲学に打ち込んでいる人の本」を読むのが好きだ。

彼らは文字をなぞるだけの上っ面の生き方をしていない。全身全霊をかけて、「生きる」という問いに取り組んでいる。
彼らは異端者だ。世間から爪弾きにあう人も少なくない。
『禅とオートバイ修理技術』の著者は、真理を追い求めた結果、狂人となり、電気ショックによる治療を受け、記憶を失った。
『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』の著者は、生きるという行為に全身全霊で向き合った。そうして向き合いすぎた結果、あらゆる人間関係を清算することを余儀なくされた。
そうした彼らの生き方に、それでも強く憧れる。憧れてしまうのは、ぼくがどうしようもない凡人だからだ。

それなりの企業で働いている。給料も同年代に比べてけっして悪くはない。プライベートで不自由を感じたことはない。正直、恵まれている。
それでも、そうした恵まれた環境全てを投げ出して、全身全霊で「生きる」という行為に没頭したい。そういった欲望を、いつまでたっても捨てられない。

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質問箱に「陽キャになれない自分を受け入れられない」という質問が届いた。
それに対して僕は「陽キャになる必要はない」「そもそもなろうとしてなれるものではない」「なので、陽キャにならないまま、充実した人生を目指す方が有意義だ」、そんな回答をした。
Twitterを見ていると、高年収、優れた容姿、生まれ育ち、そういったものが、そしてそういうものへの憧れが嫌というほど渦巻いている。
ただぼく自身は、そういったものへの憧れはほとんどない。むしろ周りの人がそういったものに強い憧れを示すことについて、不思議にすら思っていた。
そうして達観している自分を、少し得意げにすら思っていた。彼ら/彼女らのルサンチマンを眺めて、そういったものから遠いところにいる自分を再確認した。

でも改めて哲学書を読むと思う。そうではなかった。周りの人間と「憧れのベクトル」が異なるだけで、憧れ自体は確かにあった。
生に真摯に向き合う人間、その真摯さが狂気にすら変わってしまった人間。そういった人間に強く憧れる自分。

先の質問をくれた人には申し訳ないことをしたし、自己嫌悪している。
まるで達観したような回答をした。「普通であることを受け入れろ」、と。
でも普通であることを受け入れられないのは、なんのことはない。ほかならぬ自分自身だった。自分こそが凡人だった。

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さっきは神社にいっておみくじを引いた。
おみくじを引くたびに思うのだけど、そもそもぼくはあまりこういった占いを信じていない。正確に書くと、都合のいいように解釈している。
結果がよければ「いいことがあるに違いない」と思うし、その反対に結果が悪ければ「どうせ占いだろう」とごみ箱に捨ててしまう。その程度の信心だ。
今年は大吉。いちばんいいおみくじをひいた。いつもならそれを喜んでいる。
でも不思議と今年はそれを信じる気になれない。いつもは心躍るその二文字も、どこか無機質に見えた。

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一月二日。晩の八時。今日は早く寝よう。やはり昼夜が逆転している生活にいいことはない。
「健全な肉体に健全な精神が宿る」と言ったのが誰かは知らないけど、その通りだと思う。

明日はいい一日になりますように。

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