うしおととら――墓碑としての少年漫画

 『うしおととら』といえば、少年漫画好きなら知っている名作という位置づけで、少年サンデー連載でありながら一般的にはあまりメジャーではない作品だったんですが、昨今のリバイバルブームの流れで突然アニメになり、今更ながら知名度を上げましたので今なら割と皆さん知っていると思います。

 特筆すべきエピソードやキャラクターというのはいくつか思いつくのですが、今回はかつて一読者であった多くのファンの中で作品評価を爆上げしたであろう比較的初期のお話について語ろうと思います。かまいたちの回です。

 妖怪ってのは解釈に幅があって、精神存在や観念存在みたいなのも含むかと思いきや猫又のような神通力を得た長寿動物みたいなのが入っていたりします。動物起源系はイエティとかと同じ枠になることもあって、うしおととらの鎌鼬も「山奥で暮らす人間並みの知能を持ち人に化ける大きな珍しい動物」のような生体です。

 連載当時は環境意識が過渡期にあったこともあり、この話も全体としては『平成狸合戦ぽんぽこ』みたいな森に住む妖怪VS人間の開発という構図になっています。そんなありふれていたテーマを扱いながらも、このエピソードで漫画好きからの作品評価がうなぎのぼりになったのは、敵キャラクターである十郎の心理描写や行動原理、そしてその一連の描写がメジャー誌の少年漫画にしては鮮烈で、説教じみた流行りとはかけ離れたキャラクターの情念に重きを置いた描き方、とりうよりもむしろ漫画における語り口のようなものが、強く読者の心を打ったからに他ありません。

 鎌鼬の兄妹から、怒りに囚われ殺人を繰り返す身内を止めてほしいとの依頼を受けた潮ととら。それまで潮はお人よしな性格もあって何度かピンチに見舞われてきましたが、ここで十郎に真っ向勝負を仕掛けてボロ負けします。鎌鼬の十郎は敵キャラクターの顔見せ時のインパクトも重視されてるうえ、特撮ヒーロー物で新装備が出る時などにある、「そこから敵の強さが一段上がる回」のような位置にもあるわけです。

 しかも、その強さの根源が機械で平然と自分たちの住処を破壊し続けている人間への、荒れ立つ怨念なんですよ。説教じみたテーマではあるんですけど、それ以上に憎悪描写が強烈で、その一環として潮の敗北がある。読者の印象に残るのはそっちなんです。そしてその根源をなす十郎の恨み節が凄いの一言。

「もうイヤなんだよ、人間どもに気がねして生きるなんてよ! あいつらのカッコして……息をひそめてるのは! だから、オレの存在を教えてやる!! 人間を殺して、殺して、殺して、殺して殺して……人間の心にオレの名を刻んでやる!」

 素晴らしくないですか?

 どうですかこの怨念は。この憎悪は。こんなにストレートに叫ぶ悪役が少年誌に出てるんですよ。変に意識を高くした救済ないし破滅の思想に走るわけでもなく、トチ狂った意味不明な理論を展開するのでもなく、勿論単なる邪悪存在だからでもなく、憎いから恨めしいから許せないからと殺戮を掲げて狂気の表情で猛り絶叫する悪役が居るんですよ。それって凄くないですか。衝撃じゃないですか。痺れやしませんかね?

 それまでの『うしおととら』の敵って、恐ろしい妖怪がメインだったんですよ。イカれた人間も出てきましたけど、妖怪というと邪悪だから人を襲っていて、だからこそ退治するという話だった。人格モドキは持っていて人の言葉を話すやつもいたけど、結局それはバケモノとしての邪悪さとイコールだった。その点十郎は実に人間的で、妖怪だけれど人間に非常に近い人格を持ってるんですよ。人間の姿と人格を持つ妖怪が、人間的な感情で持って人間を殺しまくっている、そういう敵だった。

 決戦前に十郎が平和に暮らしていた時代の夢を見ているコマが4つ、しかもセリフ無しで入るんですけど、それも十郎が単純な悪ではなく、大元は平和を志向する存在であることを示しています。気持ちや行動における存在の二面性を夢の情景への思いに統合しつつ、その後の展開にも繋がっていくという非常に重要なコマです。

 単純に倒すべき邪悪存在から一皮剥けたということも、「敵のレベルが一段上がる回」ってところと繋がってくる気がします。環境問題をベースにしながらも、実際は人間の憎念の回なんですよ。鎌鼬の十郎は、我々苛立ちを抱えて生きる弱者の代わりに叫んでくれたんです。以前『トライガン』のヴァッシュの綺麗事は何故許されるかの話をしましたが、『うしおととら』における潮の綺麗事が許される理由は、作品内にこういったポジションのキャラクターが何人かいて、それぞれの存在が決して否定されない形で終焉しているからなんだと思います。

 少し話が逸れますが、『うしおととら』の最終決戦は人間と妖怪の連合軍とそれらと対置される世界の邪悪そのものの化身である「白面の者」との対決なんですよね。それをやるうえで、とら以外の「人間的な人格を持った妖怪」と「立場は違うがわかり合い、連帯できる」ということを示した鎌鼬回は、作品としてもやはり非常に重要な回だったと言えるでしょう。

 では話をもとに戻して、十郎の終焉はどうなったのかというと、笑顔を見せ和解を匂わせた直後に牙を向き、自ら獣の槍に飛びかかって自害するという悲劇的なものとなります。

 「まあ、こうなるしかないよなあ」という感じですが、この最期もまた一貫性として十郎の主張を補強する役目を果たしていて、彼の純粋な怒りを表しているのです。

 十郎に負けた後目を覚ました潮は、彼の恨み節を思い出して「あいつの中には恨みしか無かったが、なんだか泣いているようだった」と評しています。これぞまさに十郎の本質で、潮の涙と工事現場の人間の救助活動によって恨みを抜かれてしまった十郎には行き場がなくなってしまった。人間を殺すことで満足できると思っていたのに、本当に欲しかったのは人間が自分の立場や感情に寄り添い詫びることだったのだと気が付いてしまった。

 潮は新しい山を探して、荒らさないように言っておくから一緒に行こうと提案しましたが、怒りに行動を全振りしていた十郎の前にはもう道はなかったのです。ヴァイオレットに自由だと宣言された後わざわざ戦死しに行った『ARMS』のキース・シルバーに通じるものがありますね。

 身も蓋もない言い方をすれば引っ込みがつかなかった、ということになるのですが、フェイクでない人格というのは一貫性に宿るものです。フェイク野郎がフェイク野郎なのは一貫性を持たないからで、十郎も、『うしおととら』も、本物なんですよ。

 さて、この回で潮が十郎の立場に共感と同情の念を示し、「わるかったなあ つらかったろうなあ」とぽろぽろ泣き出すシーンは15年くらい前のインターネットで結構話題になったものです。

 と、いうのも、皆さんご存知『NARUTO』が連載開始早々にこのシーンをそっくりそのまま使ったので、当時2ちゃんねるとそこでの匿名叩きが全盛を迎えていた日本のインターネットでは、パクリだパクリだと結構な盛り上がりを見せたのです。

 『NARUTO』すら長期連載を終えた今になってあの話を蒸し返すのもなんなのですが、見比べれはわかりますけど言い逃れできないレベルで一緒なんですよ。でもかえって、パクリならここまで露骨に似せてくるのか疑問なんですよね。

 単行本のオマケを読めば岸本先生が漫画家になりたくて血の滲むような努力を重ねてきたことがわかるし、そのうえで自分の画風と、アニメを意識した動きの描き方・コマの配置とを身に着け、忍者をベースにしたオリジナリティある世界観とキャラクターを生み出してさあ念願かなってジャンプで連載が始まったわけですよ。その矢先に、露骨なパクリなんか入れるのかっていったら、普通やらないしやる必要もないと思うんですね。

 一方藤田先生もサンデーで『からくりサーカス』を連載中で、高橋留美子・あだち充クラスではないにしろそこに次ぐベテランのような位置ではあって、流石にジャンプ編集部の誰かが気が付いて確認はとったでしょう。同時期にひどいパクリ漫画が連載されてもいましたが、女の子がとにかく可愛いから載せれば勝てるとか、とにかく連載会議に通して未熟な新人に経験を積ませたいとか、そういう枠でもなく最初から期待できる連載だったでしょうよと。

 そう考えると、一悶着あったけど作品への拘りの強い岸本先生の強い意向でそのまま載ったと考えるほうが妥当なんですよ。で、その拘りというのは何だったのかというと、やはり「十郎には幸せに暮らしてほしかった」という、一読者、一ファンとしての、素朴で純粋な願いだったんじゃないかと。

 藤田先生は「登場人物はみんな幸せになりました」と語っていて、確かに十郎は作者の使った表現でいけば「魂が救われた」ような最期であり、最終決戦で別のけじめもつけられたのですが、やはり生きていてほしかったと思っていた読者も結構いたのではないでしょうか。十郎というキャラクターは、救済されるとそれに付随して落とし前としての死がついてくるという、本当に悲しいキャラクターだったからです。

 だから岸本先生は、自分が漫画家になれたら十郎が救われる話を描きたいと考えていたとしてもおかしくはないし、それならそのまんまのシーンを初っ端で入れてくるのにも合点がいくんですよ。特に『NARUTO』はどん底から始まるサクセスストーリーですから、主人公の人生が上向きになるターニングポイントとして、十郎を(読者的には)救いきれなかった言葉を主人公が受け取るエピソードを持ってきたというのは、相当の思い入れがあってのことなんじゃないかと思います。

 今は『BORUTO』になっていますけど、あれだけ続いたビッグタイトルなわけですから今後も『NARUTO』から影響を受けた漫画は続々登場するだろうし、そういった中では既に『ラディアン』とかの期待できる作品も出てきています。その根底に、十郎っていう悲しい妖怪の絶叫があったというのは、なんだかいい話だとは思いませんか。彼らの心には、ひっそりと十郎の名が刻まれているんですよ。

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。